日本職人による擬洋風建築 その5ー堀江佐吉の擬洋風建築

擬洋風建築は地方行政の指導の影響があって、地域性が強く出る。

青森は北海道に近く、北海道開拓使の影響を受けた節がうかがえる。

また、箱館の町で活躍していた関根要太郎との交流も感じ取れる仕事をしている。

各地で様々な西洋建築、擬洋風建築が出現すると、相互学習として質の向上が見受けられるようになる。

その事例は堀江佐吉の仕事で垣間見ることができる。

-旧弘前市立図書館:1906明治39

東奥義塾高校の敷地内に建てられ、昭和6年まで弘前市立図書館。

八角形の双塔を持つルネッサンス様式で、外壁は漆喰塗りで仕上げられている。

この建物は平成2年7月に市制施行百周年の記念施設として、現在地に修復・復元。平成5年には青森県重宝に指定。

 

正面
正面
背面
背面

-旧第五十九銀行本店本館:1904明治37

青森県弘前市にある歴史的建造物。1904明治37年に第五十九国立銀行(現:青森銀行)の本店として弘前市に建設。

木造2階建てで、ルネサンス風の意匠を基本としているものの、外壁は瓦を張りその上は漆喰で塗りつぶされ、窓も漆喰塗の外窓が設けられるなど、火事対策として和風技法が取り入れられている。

屋根構造は和小屋組とトラスの折衷構造。

1階の営業室と客溜りに仕切り壁がなく、また二階の大会議室は積雪地という厳しい設計条件にもかかわらず、柱芯々で14.544m四方の大空間を実現。青森県産材であるヒバ・ケヤキがふんだんに用いられ、屋根にはバラストレイト(欄干)を廻し落雪防止としての実用面を考えられた意匠が施されるなど、地域の特色が見られる。堀江佐吉の最高傑作。

 

外観
外観
2階大ホール
2階大ホール

-斜陽館:1907明治40年竣工

太宰治記念館 「斜陽館」は、青森県五所川原市にある小説家太宰治の生家。太宰家から一時旅館に転用されたが、近代和洋折衷の代表例として2004平成16年国の重要文化財に指定された。堀江佐吉設計。

 

太宰治記念館 「斜陽館」

-盛美館:1909明治42

庭園は郷土の農家でもあり資産家でもあった清藤盛美が、1902明治35年に庭師の小幡亭樹を招き、9年の歳月をかけて完成したものであり、武学流庭園の最高峰ともいわれる。庭園の南西に上下階和洋並立の盛美館が建てられている。

同館は、1階と2階で意匠が全く異なっており、1階は庭園を見渡せるように東方と北方の2方向に縁側を廻した純和風の意匠に対し、2階は1階と同じく庭園を見渡せる東北角に八角形のドーム屋根の塔屋が突出する形で配置され、また屋根には尖塔が配置された洋風に仕上げられており、庭園の添景として独特の景観を醸し出している。

西谷市助は地元の宮大工であり、また堀江佐吉の下で洋風建築の腕も磨いた。佐吉の下にいた時に函館で上下和洋折衷の建築を見て計画し、さらに4年かけて東京方面の視察し設計・施工まで行った。

 

-佐瀧本店・別邸:1924大正14年竣工

●佐瀧本店は、1885明治19年に酒類を取り扱う雑貨商として創業。当時の店舗は八角形の望楼を有する擬洋風建築だったといわれているが、1922大正12年に発生した三戸大火により旧店舗が焼失し、鉄筋コンクリートで再建された。外観は大正期に日本国内で流行していたセセッション様式となっており、特に正面右側の鐘楼風バルコニーが印象的な建物。また、1階店舗部分の天井高さが約4.5メートルあり、カウンターが備え付けられ、階段や梁、天井縁の装飾など、全体的に銀行風のデザインをモチーフにしたといわれている。

 

●同年に建設された佐瀧別邸は、店舗とは様相が異なり、当時ドイツで流行していたユーゲントシュテールを基にしたデザインの洋風部分と、数奇屋造りの和風部分の和洋折衷建物。特に、八角形3階建てにドーム屋根の望楼や妻・玄関庇の意匠、1階のステンドガラスが印象的。当館は、1921大正11年から着工していたものの、大火による本店焼失をうけて、本店再建と並行して工事が進められ、本店と一緒に竣工に至った。(登録文化財)

両建物とも、設計・施工を堀江佐吉が興した堀江組が請け負っており、佐吉の六男である堀江金蔵が主となって設計した。

これらの設計を見ると、ゼゼッションやユーゲントシュテール風のデザインは、佐吉と息子の金蔵が函館で活躍中の関根要太郎(日本人建築家-②で紹介予定)に出会ってデザインの影響を受けたものと思われる。

 

ゼゼッション風の本館(改築されている)

(ウィーンのアールヌーボー:分離派)

ユーゲントシュテール風の別邸

ユーゲントシュテール風の別邸

(ドイツのアールヌーボー:青春様式)


どちらもアールヌーボー(新芸術)の影響を受けた脱様式のデザイン。

 

堀江佐吉1845弘化2年~1907明治40年)

明治時代の青森県において洋風建築を多く手がけた大工棟梁。弘前藩の御用大工の家柄に生まれ、元々は洋風建築に関する知識はなかったが、弘前に初めて洋風の兵営が建築されその時から興味を抱き始め、1879明治12年(35歳)に出稼ぎで開拓使時代の北海道へ渡った際、建ち並ぶ洋館に目を奪われ独自に洋風建築の研究に没頭した。

1889明治22年(45歳)にも北海道での開拓使関係の工事に従事する間に函館や札幌の洋風建築を研究した。

 

また後進をよく育てており、長男彦三郎(旧弘前偕行社など)、四男伊三郎(旧津島家住宅、日本基督教団弘前教会教会堂(青森県重宝)など)、六男金蔵・七男幸治の旧藤田別邸(現:藤田記念庭園洋館/国の登録有形文化財)、佐瀧本店・別邸(国の登録有形文化財)、旧第五十九銀行青森支店(現:青森県立郷土館企画展示室/国の登録有形文化財)など)や、西谷市助(盛美園洋館(国の名勝)など)など、彼の下で働いた人間も多くの洋風建築・近代建築を残している。