北海道開拓と洋風建築 その1ー殖産興業と北海道開拓

明治維新前後の北海道人口は、アイヌが2万人前後、和人が10万人前後と推定されている。現在では人口562万人余り(平成18年)で日本の重要な食糧生産地となった。しかし、ここまで来るには並大抵ではない苦労の歴史があった。

 

北海道は江戸時代から本土との関係は密で、日本食文化の昆布の産地として重要な国土であった。しかし、明治以前は沿海部が主で内陸部には開拓の手が入っていなかった。明治維新後、内陸部の開拓が開始され、アメリカの西部開拓の技術が導入された。

 

アメリカはヨーロッパ各地からの移民が、母国の文化をもって新しい大地に定着していった。北海道も日本の本土から、仕事を失った士族が集団で移り住んで切り開いた社会で、本土とは異なる文明開化を行った。そこには強いアメリカ文化の影響がみられる。

 

明治以前の北海道

1万年前から北海道の人類居住は遺跡で確認され、その遺跡は数千か所で発見されている。

5千年前頃には青森の丸山三台遺跡で北海道の産物が発見されている。

1975年(昭和50年)824日、現在の函館市尾札部町のジャガイモ畑から中空土偶が発見。

遺跡の一帯からヒスイの勾玉や漆片などが発見されたため、改めてこの遺跡が縄文時代後期(約3200年前)の集団墓とみられている。


縄文時代:縄文人として狩猟・漁猟生活 青森との交易があった。

室町時代:青森県下北半島の豪族であった蠣崎(かきざき)氏。蠣崎氏は蝦夷人を排除して福山(松前)を本拠地とし、

     独自の政権を打ち立てた。

安土桃山:5代慶広のとき豊臣秀吉に蝦夷島主と認められ、姓を松前と改める。

江戸時代:

1604慶長9年:松前藩が徳川家康により江戸幕藩体制の一藩に組み込まれる。

        勢力範囲は道南の函館から50㎞あたりの熊石までを松前地とした。

1669寛文9年:「松前藩を追い払え」というシャクシャイン*の檄で、アイヌ人が決起、19隻の交易船が襲撃され273人の和人が殺された。

                       *シャクシャインの乱:幕府は東北諸藩にも出兵を命じ、アイヌ軍は敗北。

             そして、松前藩に絶対服従の誓詞を提出させた。この戦争はアイヌ民族の命運をかけた戦いだったが、

             結果、アイヌは和人に隷属する道を選ばざるを得なくなった。

1719享保4年:松前藩財政は、当初、アイヌ交易をはじめ熊、鷹、砂金などの特産物収益に依存していたが、この頃から松前蝦夷地は、

                      ニシン、サケ、コンブをはじめ、いりこ、干しアワビなどの海産物産地として、幕藩制下の経済に大きな役割を果たすように

                      なり、1万石の大名となった。北前船が活躍し、日本海側の寄港地、瀬戸内海を通じて西日本との交易が栄えた。

1778安永7年:ロシア船が厚岸(あっけし)に来航し通商申し入れ。

1792寛政4年:ロシア使節ラクスマンが漂流民光太夫らをつれて根室来航し通商を請う。

                      ロシアはカムチャッカ半島から千島方面へと進出、他の外国船も北海道近海へ出没するようになる。

1797寛政9年:イギリス船が室蘭に来航、ロシア人がエトロフ島に上陸。翌年、幕臣であり探険家でもあった近藤重蔵がエトロフ島に

                    「大日本恵土呂府えとろふ」の標柱を立てた。

1798寛政10年:1万石格の松前藩に任せておけなくなった幕府は松前藩を内地に移封して、蝦夷を幕府の直轄地とする。

                        間宮林蔵の樺太探検・間宮海峡の発見で蝦夷地の重要性を認識。

1800寛政12年:伊能忠敬が蝦夷地測量

1804文化元年:ロシア使節レザノフが長崎に来航して貿易を要求。幕府はこれを拒否。

                      怒ったロシアは樺太・利尻などに侵入して幕府船を焼くなどの圧力を加えてきた。

                      津軽海峡にも外国船が出没するようになり、幕府は松前藩に新たに城を築かせ、東北諸藩に警護を命じる。

1808文化5年:間宮林蔵樺太再探検

1811文化8年:ロシアの艦長ゴローニン中佐は国後島に上陸、警備の日本側に抑留される。

1812文化9年:貿易商・高田屋嘉兵衛が拿捕される。

1813文化10年:侵略の意図はないことが判明し、ゴローニンと嘉兵衛を交換して日露間の緊張は緩和。

1821文政2年:伊能忠敬が大日本沿海興地全図完成。

1853嘉永6年:ペリー浦賀来航、プチャーチン長崎来航。

1854安政元年:日米和親条約締結、下田と箱館を開港する。続いて日英、日仏、日露、翌年日蘭条約を結ぶ。

1855安政2年:幕府前蝦夷地を直轄とする。箱館奉行所、フランス軍の顧問より指導を受け五稜郭設計開始・担当伊予大洲藩士武田斐次郎

1866慶応2年:五稜郭完成・奉行所移転

日本が開国を認めると、箱館は伊豆の下田とともに開港場になり、幕府は箱館奉行をおく。

この開港によって箱館は大きく変化し、西洋人の渡来、洋学校、五稜郭の築城、洋式造船、キリスト教会など、それまでのアイヌの狩猟・漁猟型文明の地から、一挙に近代文明の玄関口へと変貌することになる。

五稜郭1866慶応2年
五稜郭1866慶応2年