日本職人による擬洋風建築 その4ー三島県令と山形擬洋風建築

山形は土木県令、鬼県令といわれた三島通庸が赴任した地域で、多くの足跡を残している。

三島通庸(みしま みちつね1835天保6年~1888明治21年)

薩摩藩士。戊辰戦争において、鳥羽・伏見の戦いで小荷駄隊を率いるなど活躍、その後は藩政改革に参加し、民事奉行や日向都城の地頭などを務めた。この時の業績が認められ、大久保利通の計らいにより新政府に出仕する。

【略歴】

1871明治5年:東京府参事。銀座煉瓦街建設の大任を果たした

1874明治7年:酒田県令(山形県酒田市など旧庄内藩を所管)

1876明治9年:~1882明治15年まで初代山形県令

1880明治13年:那須野ヶ原に三島農場を開設

1882明治15年:福島県令、翌年栃木県令兼任

1884明治17年:内務省土木局長(県令と兼任)

1885明治18年:警視総監

1887明治20年:維新の功により子爵を授与

【業績】

江戸時代まで、山形県の庄内地方(旧鶴岡県)は、日本海と最上川を経由する舟運により、江戸よりも大坂と強く結びついていた。

しかし、明治時代になると東京との陸運が重要になり、陸路による東京までの交通整備を強力に進め、福島、栃木へ抜ける道路整備を行った。

建築では、県庁・病院・学校などを当時としては大きな規模で多数作った。現存するものに旧済生館病院本館(重要文化財)、旧東村山郡役所、旧東田川郡役所、現存しないものでは山形県庁舎、鶴岡の朝暘学校などがある。洋画家高橋由一は、これらの建築物や都市の景観を描いている。1878明治11年、山形市を通過した英国人女性イザベラ・バードも、著書『日本奥地紀行』で、近代的な山形市街に受けた強い印象を記している。

これらのうち現存する建物・遺構は、経済産業省により近代化産業遺産に認定されている。

山形県庁前を描いた高橋由一筆の油絵『山形市街図』
山形県庁前を描いた高橋由一筆の油絵『山形市街図』

-済生館本館

済世館本館1879明治12・山形市:山形市立病院として1878明治11年建設。筒井明俊を上京させて陸軍病院や海軍病院を視察させて設計、原口裕之を棟梁として着手。1階は八角形の平面で中庭を持ったドーナツ状のプラン、2階は玄関上に16角形の広間、螺旋階段で中3階から3階へ登る。全体の構造が多角形で構成され、外観も例がない特殊なもの。木造下見板張りの最高傑作といわれている。本格的な洋風建築と無縁な地方人の設計施工の意欲の結晶。重文。

済生館本館
済生館本館

筒井明俊(設計)

済生館の設計は筒井となっているが、三島県令付の1等秘書官的な立場で病院建設担当となり、医師の長谷川院長と東京横浜の病院、学識経験者等の意見を集めた。さらに三島県令の意見も取り入れてまとめたのが、不思議な8角形のドーナツ状の病室を配置した平面となったものらしい。確とした記述はなく、立面も施工の原口が現場でまとめ上げたらしい。

原口裕之(施工)

薩摩藩士・原口甚五左衛門の長男として生まれる。原口家は藩の作事奉行の家柄であったが、土木の才をさらに磨き、廃藩置県ののち明治新政府に出仕する。維新政府では、大蔵省(土木寮)の権中録(十一等出仕相当)にあげられ、東京府参事であった三島通庸と協力し、銀座煉瓦街の建設に携わった。このことから土木の才を三島通庸にかわれ、酒田県令として赴任する三島通庸に同行することとなる。

三島通庸は土木県令・鬼県令と揶揄されるが、土木の部分を原口祐之が実務面で支えていたことは、山形県史や三島通庸文書などに記録が残っている。この後、山形県、福島県、那須野ケ原開拓、内務省と、三島通庸が赴任する先には必ず祐之の名前があり、土木部門の実務責任者となっている。

-寒河江市郷土資料館

下右・名称:旧西村山郡役所・竣工年:1878明治11

所有者:寒河江市

設計者・施工者:冨樫伊久助:不明

構造:木造2階建て、両翼1階建て、銅板葺

指定:山形県指定有形文化財

下左・名 称:旧西村山郡会議事堂・竣工年:1886明治19

所有者:寒河江市

設計者:本木勝次郎:不明

施工者:井上利助:不明

構 造:木造2階建て、寄棟造、銅板葺

指 定:山形県指定有形文化財


-西田川郡役所(現在致道博物館)・鶴岡市

 


1881明治14:ルネサンス風の擬洋風建築で、右の写真の2階から塔屋に上る釣り階段などに新奇性を感じる。

設計:高橋兼吉 棟梁:石井竹次郎

高橋兼吉1845弘化2年~1894明治27年)

鶴岡の大工・高橋半右衛門の二男として生まれる。父の大工職を継いで父の下で修行を重ねてから、1867慶応3年ごろに上京し、牛込津久戸前の請負師・佐野友治郎の門下になり、東京や横浜で洋風建築を学んだとみられる。

 

鶴岡に帰郷後、同じ町内に住む棟梁・小林清右エ門を引き継ぎ、地元名家の酒井家お抱えの棟梁となったとされる。

1879明治12年に旧清川学校を建設。1882明治15年には得意にしていた規矩を駆使したことで知られる湯田川の由豆佐売神社を建設。

続いて常念寺観音堂を竣工させた。そして旧鶴岡警察署を同17年に落成。また鶴岡警察署大山分署を完成させる。

 

その他は旧東田川郡役所(現・東田川文化記念館)、旧西田川郡会議事堂、西田川郡医事講究所、大山尋常高等小学校、鶴岡役場など数多くの擬洋風建築を手掛ける。