擬洋風建築を語るとき、そのスタートには2人の棟梁がいた。清水建設の2代目清水喜助と林忠恕(ただよし)である。
①-清水 喜助(1815文化12年~1881明治14年)
二代清水喜助は富山県南砺市出身。清水組の初代喜助の生誕地と至近距離にあり、宮大工輩出の地であった。清七は小間物商の子として生まれたが、天保年間に初代喜助を頼って江戸にでた。初代喜助は江戸城西ノ丸の造営に参加し、その時の彼の力量を認めて長女ヤスの婿として迎えた。その後、43歳の時に二代目を継ぎ、清水喜助清矩を名乗った。
二代清水喜助は1861文久元年に神奈川役所定式普請兼入札引受人に指名された。1862年にデント商会のロレイロの事務所兼住宅施工などで外国人技術者の下で働くようになり、ブリジェンスやウィットフィールドなどから西洋建築を学ぶようになった。
【略歴】
1866慶応2年:横浜新田北方製鉄所
1867慶応3年:神奈川ドイツ公使館
1870明治3年:ブリッジェンスの協力で築地ホテル館を建設
ホテル経営も行う。横浜居留地商館14番館以下の6館、
次いで横浜で明治政府から外国人応接所等を請け負う。
1872明治5年:第一国立銀行
1874明治7年:駿河三井組
1877明治10年:渋沢栄一邸
1881明治14年:2代目喜助死去
築地ホテル・1868明治1年:ブリジェンスの設計。全面になまこ壁を張り巡らし、中央に三重の塔を据え、塔屋には華頭窓があけられ、軒先には風鐸をつるし、石造アーチの表門には木鼻がとりついている。
なまこ壁はブリジェンスの基本設計にあったものだが、細部の和風意匠は清水喜助による。

下左:第一国立銀行・1872明治5年下右:駿河町三井組・1874明治7年
第一国立銀行は、三井組が新たに創設した銀行のための建物で海運橋三井組といわれた。
木骨石造にベランダのついた洋風2階建ての軀体に、複雑に折り重ねられた屋根が乗っている。
屋根には唐破風・千鳥破風を取り付け、方形・八角形の塔を重ねている。さらにその両側には小塔まで置かれている。初期の案では普通の屋根のオーソドックスな洋風建築だったが、三井組の希望でこのような無国籍なデザインになったいう。
駿河町三井組は端正な洋風建築であるが、屋根にシャチが鎮座している。
擬洋風建築の始点となったこの二つの建物は、たちまち東京の新名所となり、多数の錦絵に描かれ日本中に広まった。地方から見物に来た人々の中には、柏手を打って賽銭を上げる人もいたという。


第一国立銀行は自分の力で設計・施行した。当時、洋風建築の味を出すのに木骨石積み、漆喰、下見板張りの3種類ぐらいの手法があった.この建物は石積み方法で建てられ、屋根は日本の独特の形状を生かそうとしていた。
渋沢栄一邸:1877明治10年・東京深川。
当時の日常の暮らしはまだ江戸時代であり、洋風の暮らしは和風の暮らしと並立していた。
和の部分が主であり、洋は付属であった。
渋沢栄一邸も、和風部分が主で、洋風の部分は玄関から応接間までであった。
東京から三沢市古牧温泉公園へ移築されていたが、2代目清水喜助の手掛けた邸宅として、清水建設がレガシーとして再度東京に移築中。

②-林 忠恕(はやしただよし、1835天保6年~1893明治26年)
三重県出身。鍛冶、木挽を経験して大工になった多能工。横浜の居留地で西欧人から洋風建築を学んだ。体系的な教育を受けた日本人建築家が本格的に活躍し始めるまでの過渡期、建築家の役割を果たした。明治新政府の建築物を擬洋風建築で数多く手掛けた。残念ながら、現存しているのは教育博物館書庫のみである。
【略歴】
1865明治3年:英国人ドール、米国人プリッジェンスに西洋建築を学ぶ。
1871明治4年:営繕寮雇。
1872明治5年:横浜税関建築のため出張。
1874明治7年:工部省製作寮雇。
1884明治17年:米国博覧会出品調査並びに風害家屋調査。
1885明治18年:英国博覧会出品に関する調査事務。
1886明治19年:海軍省、横須賀鎮守府勤務。
【仕事暦】
名称 |
年 |
所在地 |
大蔵省① |
1872明治5年 |
東京都千代田区 |
1873明治6年 |
東京都千代田区 |
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1873明治6年 |
兵庫県神戸市 |
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1874明治7年 |
東京都中央区 |
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四日市駅逓寮 |
1874明治7年 |
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横浜郵便役所 |
1874明治7年 |
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品川工作分局硝子製造所 |
1877明治10年 |
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目黒村駒馬農学校 教師館•寄宿舎 |
1877明治10年 |
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1877明治10年 |
東京都千代田区 |
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元老院本庁 |
1878明治11年 |
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東京上等裁判所 |
1878明治11年 |
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教育博物館書庫 |
1880明治13年 |
東京都台東区(芸大内)現存 |
会計検査院 |
1884明治17年 |
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蔵前職工学校 |
1886明治19年 |
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鎮守府庁 |
1890明治23年 |
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洋風デザインのポイント
①屋根:ペディメント(妻面)を正面
②外壁:大壁漆喰+コーナーストーン、アーチ開口
③開口:開口枠+シャッター
④構造:木骨+組石
建物の内容を見ると、ブリジェンスや清水喜助のような木骨石造ではなく、普通の壁には漆喰を塗りアーチやコーナーストーンにのみ石を貼る木骨漆喰コーナー石貼りの省略形となっている。建物の姿は、日本屋根が乗ったり塔が付いたりせず、単調な四角形の内に納まり、唯一ペディメントと列柱のついた大ぶりな車寄せが張り出している。
こうした構成はパラディアニズムを好んだウォートルスの影響が見られる。擬洋風の建築表現としてはおとなしいが、中央官庁の建築ということで地方への影響力は強く、車寄せだけを強調したパラディアニズム崩しの構成は地方官庁の定型として広まっていった。