日本職人による擬洋風建築 その1ー擬洋風とは

擬洋風建築の「擬」とは「準える」(なぞらえる)こと「かたどり、似せる事」の意味であり、擬洋風建築とは西洋建築ぽい「洋風」の建築のことを指す。正規のルールや手順を無視して、見た感じの形態だけを似せた洋風建築をいう。

明治初期の時代、擬洋風建築は「西洋造」や「洋風家造」という言葉で西洋型家屋に模した「洋風模造」などと呼ばれていた。同時代から「模造」だと認識されていたが、これは本来石造・煉瓦造で造られるべきものを木造で代用した構造上の模造として認識されていた。

明治10年代後半以降、工部大学校を卒業した日本人建築家たちが活動を開始すると、西洋建築を直写した建築が建てられた。諸外国との不平等条約を解消したい明治政府にとって、近代化とは性急な西洋化に他ならなかった。

こうした趨勢の中、明治初期の擬洋風建築は様式的正確さを欠いた恥ずかしいものとして断罪されてきたが、批判の中で擬洋風建築はまとまりのあるものとして認識されるようになり、模造の対象も構造から様式に読み替えられた。

大正期になると、明治期の洋風建築を再評価する動きが活発に見られるようになり、建築家たちが自己の表現を強く意識しはじめたこの時期、擬洋風建築も独創性の発露として高く評価され始めた。しかし、まだ一部の研究者とどまる評価であった。

戦後、再び擬洋風建築には「見よう見まね」という評価が決まり文句のように結びつけられるようになる。

1950年代後半から始まる明治建築の本格的な研究においても、コロニアルスタイルの稚拙な模倣として位置づけられていた。

1960年代から擬洋風建築が文化財指定されるようになるが、様式よりも近代化に貢献する文化的意義がその評価の中心に据えられていた。1970年代になると、やっと西洋の模倣にとどまらない独創性に富んだ建築という積極的な評価が復活する。

これ以降の専門家たちは「擬洋風」の語が、ニセモノとしてのニュアンスを感じさせることを嫌い、別の語に置き換える提案をしている。しかし、擬洋風建築の棟梁といわれる弘前の堀江佐吉の仕事は、本格的な西洋建築以上のものがある。

逆に日本における真の西洋建築とは何かという問題提起にもなる。日本の近代建築の帝冠様式との区別も難しい。

逆に、西欧におけるジャポニズムを我々がどう評価するかということでもある。日本文化の影響を受けた絵画やファッションをどう評価するか。

建築デザインは、どのような素材を使うかで形態が決まってくる。洋風建築の写真を見せられても、材料が分からなければ造りようがない。日本の大工にとって、洋風建築の写真を見て目についたものはおそらく石、レンガだったに違いない。

日本では、西欧建築のように石でアーチやドームを作る伝統は生れなかった。日本では石よりも木材の方が気候風土に合っていたので、木でもって建築をつくる技術体系が出来ていた。そこで、木質建材で西洋建築をつくることを考えた。

構造用のレンガもまだ生産されていなかった。そうした中でまず思いついたのが日本の伝統的な海鼠(なまこ)壁であった。漆喰を使って石に代わる造形を考えた。もう一つは動力機械による製材品、それに伴い大量に発生する羽柄材、ばら板類である。

そうした材料を用いて、次のような4つのタイプの儗洋風建築物が各地にできた。

-木骨漆喰系:海鼠壁洋風建築

旧新潟税関庁舎:新潟市中央区緑町・重要文化財 竣工 明治2年(1869年) 設計:不詳
旧新潟税関庁舎:新潟市中央区緑町・重要文化財 竣工 明治2年(1869年) 設計:不詳

幕末の開港五港(新潟・横浜・函館・長崎・神戸)の中で唯一現存する、運上所(税関)。外壁をなまこ壁とし中央に二重の塔屋を持つ。

引違の窓には両開きの鎧戸を設け、中央の入り口は漆喰アーチになっている。擬洋風建築の初期の例として、また最古の税関庁舎として貴重な文化財。

この工法は清水喜助が築地ホテルで採用。木構造で躯体を造り、板で下地を組み、平瓦を斜めや水平千鳥に張り付け、目地に漆喰を盛り上げる方法である。

造形的に画一的で、洋風の感じがあまり出なかった。

-木骨組石造系:組積耐火建築

富岡製糸所:太い木骨の間にレンガを詰め込んで壁を作る方法であるが、日本では地震と耐久性の関係であまり普及しなかった。

欧米では木骨を意匠としたハーフ・ティンバー工法として一般化しているが、手間がかかるので今日的では本当のハーフティンバーはなく、意匠だけになっている。

組積造の優れた特性は耐火性であった。大切な品物を火事から守るために石造は優れた性能がある。

しかし、石造としての耐震性はあまりないので、構造は木軸で組み、石は仕上げ材として割り切った使い方がある。開口部はとりにくいので、用途は倉庫などが多い。


大正9年(1920年)竣工の木骨石造倉庫。

-木骨漆喰系:西洋漆喰工事

木摺漆喰壁の解体修理 (旧伊達郡役所、福島県、1883)
木摺漆喰壁の解体修理 (旧伊達郡役所、福島県、1883)

木摺り下地は日本古来のものではなく、明治中期に洋風建築の工法として使用されるようになった。木材の機械製材によって発生する大量なバラ板小幅板の利用によって、竹小舞に代わる壁をつくれるようになった。

木摺下地は柱、真柱、野縁等に厚さ7mm、巾30mm40mm位の杉材を、約7mm間隔の目透かしをつけて釘止める。

釘は受け材に2本ずつ打ち、継ぎ手は受材の心で6mmの位の目透かし継ぎとし、6枚以下ごとに乱継ぎとする。木摺り下地は仕上げ材にひび割れ剥離が起こらないように歪みを取り、目違いないように打ち上がり面が平らになるようにする。

木骨石造系の擬洋風から一歩進んだこれら木造漆喰仕上げの擬洋風は、中部地方の長野、山梨、静岡の三県で最もよく利用された。中でも特に盛り上がったのは山梨で、県令藤村紫朗のもと藤村式建築と呼ばれる一連の擬洋風建築が建てられた。

-下見板の擬洋風

漆喰系の擬洋風がピークを迎える頃、下見板にペンキを塗って仕上げる擬洋風が擬洋風の晩期に広まった。

下見板系の擬洋風は北海道、山形と東京から始まるが、質と量から影響力は寒冷地であり木材生産地の北海道と山形の方が大きいと考えられる。

漆喰などの材料は水分を含むので、寒冷地では凍害があって不適な材料であった。それに対して、比較的ローコストで洋風建築が表現できる下見板が明治末から大正にかけて使用された。

問題は耐火性の問題で、市街地の密集した地域では建てられない。ペンキも定期的に塗らないと耐久性がなくなる。

 

また、今日のようなコーキングがないので雨仕舞が難しい等欠点も多い。

しかし、北海道を技術指導したアメリカのホイラーは、迷うことなく下見板張りを基本ルールとした建築を建てた。

アメリカ開拓の中の住宅建設を見ると、ジョージア、カロライナの南部ではレンガ、中部内陸部ペンシルヴァニアでは石積、北部マサチューセッツでは木造建築というように、気候風土に合わせた建築材料で、同じ様式の建築デザインが出来ていた。マサチューセッツは北海道と同じ北緯43度に位置し、多くの建築物が下見板張りで造られていた。

南部:レンガジョージアン 
南部:レンガジョージアン 
中部:石造ジョージアン
中部:石造ジョージアン
北部:木造ジョージアン
北部:木造ジョージアン

ジョージアン様式の特徴:古典様式の構成と古典的な装飾:17501800

-1厳格な左右対称形

-2玄関は建物のセンター、ドアを閉めると玄関が真っ暗になるので、玄関ドアの上部にガラスをはめるか欄間つける。

-3玄関ドア枠は装飾的な柱(ピラスター)に支えられたエンターブラチュア(コーニス・フリーズ・アーキトレーブ)で構成されたブロークンを含めた多様なデザインのペディメントをつける。

-4軒先の短い屋根:屋根型:平入切妻50%、腰折屋根25%、寄棟屋根25

-5軒下のコーニスは装飾的なモールディングである歯型造作など使用。

-6複数のガラスで構成された窓は左右対称に配置。通常5台を左右対称に配置している

-7その他の特徴:煙突/窓:標準化された上げ下げ窓/1階には大型の窓を付けることがある/屋根裏:ドーマーをつけて当初は召使いの部屋とした。

旧鶴岡警察署大山分署1885明治18年
旧鶴岡警察署大山分署1885明治18年

かつては馬鹿にされ、無視されて手入れもされずに朽ちていった擬洋風建築は、今や文化財として評価され観光の目玉になってきた。珍しいだけでなく、そこで行われた人間の生活を思い浮かべることで歴史を実感させてくれる。全国には相当の数の擬洋風建築があって、まだ現役で使用され続けているのもある。適切な維持管理のもと、さらに寿命を延ばし続けてもらいたい建築である。