お雇い外国人による西洋建築 その4ー個々の建築から集合としての都市計画

1971明治4年、ドイツ帝国が成立し、ビスマルクが宰相となっていた。

ビスマルクの強硬な外交政策は、殖産興業・富国強兵を目指す日本の政治家にも大きな影響を与えていた。

一方、国内的には国民に目標を持たせ、指揮命令系統を明確にし、統制が分かりやすい形で個々の国民に伝える必要が認識されていた。

 

日本のリーダーたちはヨーロッパの都市を視察して、新しい国家形成のためには、個々の建築だけでなく、個の集団としての都市そのもののデザインの必要性に気が付き始めた。

コンドルにも提案させたていたが、案は建物を単にきれいに並べただけで、都市全体としてのインパクトに欠けていた。

 

エンデ&ベックマン

そこで新たなお雇い技術者の必要性が生じ、そこに登場してきたのがドイツのエンデ&ベックマン事務所であった。

ベックマンたちの都市の考え方は、単に建物を分散させて配置するのではなく、道路による都市軸を取り入れて、都市空間にヒエラルキーと秩序を表現する都市計画だった。

 

ヘルマン・グスタフ・ルイ・エンデ

Hermann Gustav Louis Ende)(独)1829年生-1907年没

来日:1886明治19年  1888明治21年帰国

専門:建築家(ネオ・バロック)

1860万延元年:ベックマンと事務所結成(31歳)

1883明治16年:プロイセン技術建築局建設

並建築アカデミー建築部長

1886明治19年:工科大学と美術アカデミーで教師兼務。さらにこの年開設のマイスターアトリエ建築コースの教授に就任。

ウィルヘルム・ベックマン

(Wilhelm Böckmann)(独)1832年生ー1902年没

来日:1886明治19年、1887明治20

経歴:18641865年:パリ都市計画に関して建築家協会で講演

1868年:建築雑誌 『ドイツ建築新聞(ドイツ語版)』創刊

1868年:ベルリンの計画に際し道路計画について批判

パリについても街区景観について非難。

1869年:建築家協会会長就任。

 

日本の外務大臣井上馨は、西洋式の建築による首都計画(官庁集中計画)により近代国家としての体制を整えようとしていた。1886明治19年、エンデ=ベックマン事務所と日本政府は契約を結んだ。

 

ベックマン、エンデ、所員のヘルマン・ムテジウス、リヒャルト・ゼール、カルロス・チーゼ技師(煉瓦製造)、ブリーグレップ博士(セメント製造)、ジェームス・ホープレヒト(ベルリン都市計画の父と呼ばれる)ら総勢12名が来日し、2か月の間東京を調査し、計画を作成した。当初の計画(ベックマン案)では日比谷・霞ヶ関付近に議事堂、中央官庁などを集中して建築する壮大な都市計画案であった。

 

 

1887明治20年、ベルリンでまとめた議事堂などの設計案を持ってエンデが来日した。

しかし、エンデ帰国の直後に外務大臣井上馨が辞任したことで官庁集中計画そのものが頓挫することになった。

議事堂・司法省・裁判所の設計は続けられたが、1890明治23年、エンデ・ベックマンとの契約も解除された。

 

1886明治19年、エンデ&ベックマン事務所との契約と同時に、ドイツ建築習得のために工部大学校の卒業生である妻木頼黄、渡辺譲、河合浩蔵の3名の建築家とレンガ、板金などの職人17名がドイツに派遣されていた。そして、エンデ&ベックマン設計の司法省(現法務省本館)が1895明治28年に竣工した。コンドル色のない、ネオ・バロック様式のドイツ建築が初めて完成した。


ネオ・バロック様式とは当時、ヨーロッパの国家建築で流行していた歴史主義建築1920世紀初頭の時期、過去の西洋の建築様式を復古的に用いた建築)のひとつで、建築の中に芸術、家具といった要素を融合させた華麗さが特徴。

交差ヴォールト様式を採り入れた優雅なアーチ型の天井、屋根の四隅の装飾(突針)などにも、その影響を見ることができる。

外壁は煉瓦と石、屋根は天然スレート(石を切り出したもの)を、基礎には当時、木製の樽に入れて輸送されるほど希少だったセメントを大量に使用した。

 

大量なレンガに関しては、渋沢栄一が「日本煉瓦製造」という会社を新設。良質な煉瓦を大量生産することに成功した。

これ以降の建築でよく用いられ、東京駅でも使用することになった。

 

関東大震災には無傷であったが、空襲ではレンガの構造物を残して焼け落ち、応急的に瓦屋根を乗せて2階建てで法務省として利用してきた。1994平成6年、本格的な修復工事で元の3階建とし、内部も当初の姿の復元を試みた。

全国7か所の居留地と、大都市にぽつぽつと立ち上がるお雇え外国人による西洋建築は、進歩の証として評価された。

廃藩置県で新たに登場してきた地方の県令は、率先して洋風化を推し進めた。

洋風建築を建てるにあたって、地方にはまだ建築家がいなかったので、職人を各地の洋風建築を視察させて、職人の設計施工で地方の洋風建築を建て始めた。

それが日本職人による儗洋風建築である。(その3:お雇い外国人による西洋建築:了)