お雇い外国人による西洋建築 その3ー正統な建築教育を目指して②

日本建築界の母

そして、やっと建築を学問として体系的に教育できるJ.コンドルがやってきた。

明治政府の要請で教師としての契約を結び、1877明治10年来日、24歳の若者であった。

工部大学校造家学科の教師として教育にあたるかたわら、工部省に属して政府関係の諸施設の設計を受け持った。

彼は建築学の全体像から現場の技術に至る教育が出来、彼自身の設計はクラシック系とゴシック系のデザインを使い分けて仕事をした。

ジョサイア・コンドル

Josiah Conder)(英)1852年生--1920大正9年日本で没

来日:1877明治10年~1884明治17年解雇

専門:建築学教員(建築家としての活動は別掲)

仕事:辰野金吾ほか21名を教育し「日本建築の母」と呼ばれ、東京大学構内に銅像が立っている。

 

コンドルはロンドンで生まれ、サウスケンジントン美術学校とロンドン大学で建築学を体系的に学んでいた。

1873年から1875年にかけてウィリアム・バージェスWilliam Burges1827―1881)の建築事務所で働いた。1876年、英国王立建築家協会の設計競技で一等となり「ジョーン・ソーン賞」を受け、将来を期待された若者であった。

 

若いコンドルは謙虚で多感であった。それが学生にも好感が持てた理由でもあるが、ヨーロッパから日本へ来る途中に見たイスラム、インド文化に影響を受け、日本の文化にも敬意を払った。そして、「日本にふさわしい西洋建築とは何か」と考えた。

 

コンドルは日本文化を高く評価し、日本人には謙虚であった。それ故に日本人の若い学生を教育できたとも言われ、さらに日本人以上に日本の文化を愛した。

 

 

在留外国人の日本アジア協会に加盟し、日本の文化を研究し、日本文化を欧米に紹介した。日本画に傾倒し、河鍋暁斎の弟子になった事は有名。雅号「暁英」をもらい、相当の腕だったとのこと。暁斎の末期まで看取った。歌舞伎にも通じ、外国人同士の演劇にも熱心で、舞台装置や背景の書割を担当していたという。日本舞踊、華道、落語などにも通じ、日本人の間では「コンドル先生」「コンデル先生」と呼ばれていたという。日本人の妻を娶って、日本で没した。子孫はイギリスに存命中である。

 

 

1877明治10年:日本アジア協会加盟

1880明治13年:「日本意匠史第1-宮中編」発表

1881明治14年:「第2-武具編」発表。

日本画家河鍋暁斎に弟子入り。

1887明治20年:河鍋暁斎を看取る。

そのような中でのコンドルの設計課題は、築地訓盲院、北海道開拓使物産売捌所、上野博物館それに続く鹿鳴館の設計であった。しかし、これらの設計で教育者としては申し分なかったが、建築設計には疑問を持たれることになってしまった。

コンドルの「日本にふさわしい西洋建築」を真剣に考え、極東と西欧の中間に位置するインドイスラムを感じさせる造形をしてしまった。当初、日本人には分からなかったが、西欧をそのまま移植するという日本側の意図に反していることを感じ取られるようになる。

 

上・1882明治15年:旧上野帝室博物館。ヴィクトリアンゴチックにインドのイスラム風の尖塔と開口アーチが組み込まれている。

下・1882明治15年:開拓使物産売捌所。同様にイスラム建築の要素が開口部形態、装飾等に強く表れている。

鹿鳴館は、日本の外務卿井上馨による欧化政策の一環として建設された西洋館である。国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として使用された。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。

 

欧米諸国との間の不平等条約を改正する狙いがあったが、1887明治20年に条約改正の失敗で井上が辞職したことで鹿鳴館時代も終わりを告げ、1890明治23年からは華族会館として使用されるようになった。1941昭和16年に取り壊された。

 

当時、日本の政府高官やその夫人でも、その大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るすべもなく、その物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった。本人たちは真剣だったが、試行するも錯誤ばかりが目立った。

西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していた。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に面白おかしく描かれる有様であった。

上:1883明治16年:鹿鳴館ネオルネッサンススタイルが基調になっているものの、何故かインドイスラム風のモチーフが多い。鹿鳴館は日本の教科書にも出てくるほど有名であるが、現存しないために、その建築の評価は当時における役割と結果だけが評価されている。鹿鳴館の模型が江戸東京博物館に展示されている。

1882明治15年:工部省営繕局雇いで工部大学校教授兼務

皇居御造営掛兼務

1884明治17年:太政官雇

1886明治19年:建築局雇い・一時帰英

1887明治20年:教授職終了し辰野金吾に引き継ぐ。

帝国大学工科造家学授業顧問

岩崎家及び三菱社建築顧問

内務省土木局建築顧問

1890明治30年:横浜居留地に設計事務所開設

以後の建築家としての活躍は別掲

1879明治12年の第1回卒業生から1887明治20年の第8回生まで、計21人の日本人の建築家を教えた。

その第1回生の辰野金吾が彼の後を受けて工部大学造家学科で教え始めた。その他の教え子も、日本の重要な建造物を立派にこなし、コンドルは「日本建築界の母」と呼ばれて、その銅像が東大の構内に立てられた。

1884明治17年:太政官雇となり、1886明治19年にかけて新官庁街計画、国会議事堂計画、アジア博計画、日銀計画に関与するがどれも不調におわった。原因は、コンドルの「日本らしい西洋建築」と日本のリーダーが求める「純粋西欧建築」のズレが明確になってきた。

また、一時帰英したときに、ヨーロッパでの新しい建築デザインや、芸術のアートアンドクラフト運動等を見聞した時、自分の感性の遅れを自覚したに違いない。

また、新官庁計画というビック・プロジェクトに取り組むには、組織的なバックアップ体制と関連分野のエキスパートの連携が必要であることも、ベックマンたちの提案を見て思い知った。