お雇い外国人による西洋建築 その3ー正統な建築教育を目指して①

工部省は工学寮という技術者養成機関を持ち、工学校を運営した。

1873明治6年、当初は予備教育のための小学校も予定されていたが、校長に就任したヘンリー・ダイアー*6年制の大学校のみとする学則を定めた。1877明治10年に工学校大学校本館が完成すると、正式に工部大学校と呼ばれた。

1885明治18年に工部省の廃止が決まり、工部大学校は文部省に移管され、翌1886明治19年の帝国大学令により帝国大学工科大学になった。これは現在の東京大学工学部にあたる。

 

*ヘンリー・ダイアー

Henry Dyer 英 1848- 1918年)

1873年:近代エンジニアリングの先駆者であるウィリアム・ランキン教授などに学び、グラスゴー大学を卒業して来日。25歳。明治政府により、工部省工学寮工学校の校長に任命され来日して10年間、近代日本の技術教育の確立に尽力した。

1882年 職を辞す。明治政府より、勲三等。

1883年 帰国。

 

技術者教育を図る工部寮は1873明治6年に学生を募集し、11月から授業を開始した。その中に造家(建築)科があり、6年過程の第1期生が通い始めた。

 

*教員

ヘンリー・ダイアー(Henry Dyer)校長:教育体系/25

ジョン・ミルン(John Milne)鉱山:地震学の基礎/26

ウィリアム・E・エアトン(William Edward Ayrton)物理学・電気/26

ジョン・ペリー(John Perry (engineer))数学・技術者

ジョサイア・コンドル(Josiah Conder):造家(建築)

ウィリアム・グレイ・ディキソン(William Gray Dixon)英語・22

エドワード・ムンディ(Edward F. Mondy):数学・25

ディヴィッド・ヘンリー・マーシャル(David Henry Marshall)化学・36

エドワード・ダイヴァース(Edward Divers

リチャード・ライマー=ジョーンズ(Richard Rymer Jones

ジョージ・コーレイ(George Cawley

1871明治4年、工部寮の校舎の設計は当初、山尾校長の所管である測量部の測量司の技術者と、灯台寮にいた石工マークスと大工のアンダーソンを転属させて進めていた。

 

1872明治5年に建築家ボアンヴィルが設計に参加し、一部設計を手直しにして着工した。

1875明治8年、営繕事業が大蔵省から工部省に移管され、大蔵省の土木寮の顧問建設技術者としてウォートレスがいたが、工部寮はウォートルスを採用しなかった。

 

当時、新宮殿の計画がビッグプロジェクトとして動いていて、ウォートルスも計画案を提案したが、ウォートルスが得意としていたジョージアン様式は時代遅れと評価された。

 

全国的に広がりつつあった洋風建築であったが、それらの建築は、先進諸国の視察から帰ってきた人々に違和感を与えた。

お抱え技術者の洋風建築は、ヨーロッパの正統で本格的なものとは違う感じがし、時代遅れのようであると評価された。

事実、イギリスではリージェンシー様式からヴィクトリア様式に、フランスではアンピール(帝政)様式の時代に移行し、日本人の目でもそうした移り変わりが理解できた。本格的な西洋建築を目指すには、正統な建築家の養成が必要である事が分かった。

 

1877明治10年、校舎となる工部寮の本館が完成し、同時に工部寮は「工部大学校」となった。

校舎を設計した関係で、最初の建築を目指す1期生達はボアンヴィルの指導を受けることになったが、ボアンヴィル自身が教えることが不得手の上に、日本人を蔑視するため評判が悪かった。アンダーソンは大工ということで、教壇で教えるよりも現場での技能実習指導だった。

そのため、体系的、網羅的に建築教育できる建築家を求め、独自の人選を図っていた。当時、工部省雇いになっているお雇い技術者のアンダーソンがいたが、技術者というより技能者であった。それでも工部寮の教師館、小学校、生徒館を担当していた。

 

力不足ということでボアンヴィルを投入し、工部大学校の本館設計の傍ら、造家科の教育も担当させたが日本人を軽蔑するなど、学生は不人気であった。学生に不人気なので、次にイタリア人のカペレッティを準備するが、教育に携わったか否かの記録はない。

 

ウィリアム・アンダーソン

William Anderson)(英)(1842—1895明治28年)

来日:1872明治5年~1885明治18年日本で没

専門:建築-職種は大工科造家棟梁。1875明治8年解雇。

architectengineerというよりはbuildercarpenter

仕事:建築教育で教育には不向き

工部寮教師館、小学校1873M6

工部寮生徒館     1874M7 ヴィクトリアンゴチック

 

シャストル・ド・ボアンヴィル

Charles Alfred Chastel de Boinville)(仏系英)(1850-1897

来日:1872明治5年<9年間>1881明治14年離日解雇

専門:建築技師

帰英後に英国工務省の建築技師となる。

仕事:工部省測量司所属

1872明治7:年工部大学校の教員。学生から不評。模写と現場見学だけ、日本人を蔑視する姿勢があった。

1877明治10年:コンドルに教授の席を引き継ぐ。

工部大学校増築 1875M8

講堂・本館   1877M10(ネオ・バロック)

聖アンドレ教会 1879M12

外務省庁舎   1881M14

工部大学校
工部大学校

ジョバンニ・カペレッティ

Giovanni Vincenzo Cappelleti)(伊)生れ不明―

来日:1876明治9年~1879明治12年解雇

1885明治18年離日・渡米

専門:美術学校教師として雇用するが3年で解雇

渡米後サンフランシスコで建築設計に従事

仕事:教師としての履歴は不明。

遊就館1881M14  絵画的。