お雇い外国人による西洋建築 その2ー外国人技術者による西洋建築②

造幣寮

1871明治4年、新政府は造幣寮(現在の大蔵省造幣局)を開設し、新貨条例を制定して10進法の「円」の貨幣単位を採用し、江戸時代の両・匁・文の体制から切り替えた。江戸時代は1両=4分、1分=4朱の四進法であった。

 

新しい金貨・銀貨・銅貨は円形の貨幣で統一し、江戸時代の楕円形の大判・小判,なまこ形の丁銀、不定形の小粒であった豆板銀などが円形に統一された形状をもつことになった。

 

造幣寮は大阪で創業され、当時としては画期的な洋式の機械設備により貨幣の製造を開始し、その後勲章の製造、貴金属の品位証明等、逐次事業の範囲を拡大し今日に至っている。

1872明治5年、相変わらず江戸名物の火事が発生した。これを契機に、銀座の通りの耐火建築による計画が始まった。

銀座は、元々はそう賑やかな通りでなかったが、東京・横浜間の鉄道開通に伴って、新橋駅の駅前通りとして計画された。完成時は空き家も目立ち、日本橋に比べると格が低かったが、その後は文明開化を象徴とする街として全国に名をはせた。

設計を任されたのが、当時、様々な分野で活躍していたウォートルスであった。ウォートルスはアイルランドに生まれ育って、香港・奄美大島を経由して来日し、グラバーの下で働いた。

日本での建築の最初仕事は大阪の造幣局であり、以後工場、橋梁、港湾、鉄道、水道、都市計画、煉瓦・セメントの製造などに関わった。彼は建築の仕事だけでなく、材料となる煉瓦工場を建てたりする、単なる技術者ではなく、幅広い事業家的技術者であったようである。

トーマス・ジェームズ・ウォートルス

Thomas James Waters, 1842- 1898年)

専門:アイルランド人・土木寮雇。建築。

来日:1865慶応元年~1873明治6年アメリカ経由帰国

1874年再来日~1875明治8年:雇止めとなって中国へ移動し、上海で土木事務所開設し長崎の高島炭鉱技師となる。

1891年:アメリカデンバーで弟とウォートルス兄弟社開設。

仕事:薩摩藩奄美大島砂糖工場、佐多岬灯台

大阪造幣局1871

竹橋陣営1871

銀座レンガ街1873

左・泉布観:1871明治4年:造幣寮(現在の造幣局)の応接所として建設された。完成の翌年に明治天皇が行幸し、貨幣を意味する「泉布」と館を意味する「観」から泉布観と命名。明治天皇自身も3回も訪れ、皇族や外国の要人を数多く迎えた。1956年(昭和31年)には国の重要文化財に指定。

右・造幣寮:デザインは古典主義建築(ジョージアン様式)をベースにするが、流行遅れなうえ、正統な様式から見ると、実は相当あやしげなものだという。

造幣寮:

下・東京銀座:1873明治6年~10年完成。ウォートルスの代表的成果。新橋~京橋全長1kmの歩廊付列柱。裏道もあわせると6.6kmとなった。ガス灯が立ち、1982明治15年には馬車鉄道が走る。デザインはイギリスのジョージアン様式。しかし、当時のイギリスではすでに新しいヴィクトリア様式に進んでいた。煉瓦つくりであったために関東大震災によって破壊され、鉄筋コンクリートで同じ町並みは復元されなかった。

富岡製糸場

銀座は関東大地震で破壊され、新橋駅は鉄道の発達によって役割を終えて建替えられた。同じ頃建築されたもので今日残されている建造物として、群馬県富岡の製糸工場がある。当時、日本の輸出品であった絹糸を近代的な設備で試算することを目的に、政府が行った事業であった。当時、フランスが進んだ技術を持っており、機械設備と共にフランスの技術者と女子の指導者とともに導入された。当初は官営の工場であったが、その後民間に払い下げられ、さらに売却されていくうちにナイロンが登場して絹糸の需要が減少し、廃墟となる寸前に世界遺産と認定された。

大隈重信、伊藤博文と渋沢栄一は官営の機械式の製糸場建設のため、ポール・ブリューナ(フランスの軍人 明治政府の兵部省兵式顧問)と契約した。明治政府はブリューナが提出した詳細な「見込み書」の内容を吟味した上で、1870年(明治3年)6月に仮契約を結んだ。

ブリューナからバスチャンは明治311月初旬に設計依頼を受けると、同年1226日に図面を完成させた。彼が短期間のうちに主要建造物群の設計を完成させられた背景としては、木骨レンガ造の横須賀製鉄所を設計した際の経験を活かせたことが挙げられている。

エドモント・オーギュスト・バスチャン

Edmond Auguste Bastien, 1839- 1888年)

専門:フランス・シェルブール出身の船工、製図職工。

来日:1865慶応元年~1869明治2年:横須賀製鉄所雇

1871明治4年~1872明治5年:大蔵省雇・富岡製糸場

1875明治8年~1880明治13年:工部省営繕局雇(125円)

1880明治13年~1883明治16年:建築業自営

1885明治18年~1888明治21年:上海フランス租界工部局公務監督。

1888明治21年:再来日して日本で死去。横浜外国人墓地に彼の墓が残っている。

仕事:お雇い外国人として横須賀製鉄所に勤務。

富岡製糸場1871明治4年の開業当初の主要建造物の設計。

繰糸所、東置繭所、西置繭所、蒸気釜所の4

富岡製糸場
富岡製糸場

尾高惇忠が日本側の責任者となって資材の調達に着手し、1871明治4年には着工にこぎつけていた。建築資材のうち、石材、木材、レンガ、漆喰などは周辺地域で調達した。なお、レンガはまだ一般的な建材ではなく、瓦職人を呼び寄せ、良質の粘土を産する甘楽町に設置した窯で焼き上げた。建物には西洋建築の様式的形態、装飾物はない。

 

 

鉱山開発

鉱山開発は鉄道建設、通信施設と同じくらい明治政府の重要な課題であった。日本列島は少量ながら多種の鉱産資源が採掘可能である。少量でも高価値の金や銀の産出量は、世界でも上位の時期があった。明治時代に入ると富国強兵政策の下に、鉱山開発が進められ、北海道や九州北部の炭田や足尾銅山、釜石鉱山(鉄鉱石)が開発された。

今日では、資源の枯渇や品位の低下、人件費をはじめとする採掘コストの上昇などにより価格競争力を失い、多くが閉山に至っている。

鉱山開発は土木技術が主であるが、付属としての建築物は少なくない。お雇い外国人がいれば、当然、その人のための住まいを準備しなければならない。そのため、土木建築技師としてレスカスが採用された。

 

ジュール・レスカス

Jules Lescasse1841年頃 – 1901アルジェで没)

専門:フランスの土木建築技師。

来日:1871明治4年<15年間>1889明治19年離日

仕事:工部省の生野鉱山の技師を務めた。その後横浜、東京に転勤し、建築事務所やニコライ邸、西郷従道邸の設計に携わった。ニコライ邸は、レスカスが考案した耐震技術が採用され、日本における建築物の耐震技術の向上に貢献した。また、母国の建築金物店も経営し、1886明治19年頃に帰国した。

生野鉱山煉瓦工場&ムーセ旧居:1872明治5年・生野鉱山で働く外国人技術者のために、生野に宿舎(個人住宅)が5棟建設された。そのうち、ムーセ旧居はフランス人技師ムーセの住居となっていた二番館である。ムーセが日本を離れた後、鉱山が発見された神子畑に移築され、事務所兼診療所として利用された。兵庫県朝来市(あさごし)。

西郷従道邸:1877明治10年東京:西郷從道は、明治初年から度々海外に視察に出掛け、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の中枢に居た人物で、在日外交官との接触も多かった。そのため「西郷山」と呼ばれる程の広い敷地内に、和風の本館と少し隔てて本格的な洋館を接客の場として設けたのである。明治村に移築保存。