お雇い外国人による西洋建築 その2ー外国人技術者による西洋建築①

日本の殖産興業のために欧米から様々な機械設備を輸入し、それらの設備を治める工場や倉庫などの建築も洋式建築にしていった。

これらの建築は、輸入した機械設備の操作のために付き添ってきた外国人技師たちによって指導され、建築資材は国内で調達できるもので、日本の技能者・職人集団を指揮して建設された。

 

しかし、外国人の技術者は機械技術には通じてはいたものの、本格的な建築教育を受けていなかった。したがって、彼ら技術者が指導して建築した建物は本格的な西洋建築ではなかった。

 

それでも、日本における彼らが指導して建築したものは、日本にはない異な建物であり、それを西洋建築として日本人は受け止めた。

 

 

 

鹿児島藩集成館

外国の文明に対して積極的な取り組みをしようとしていた佐賀藩、薩摩藩(鹿児島県)等の先進的な地域では、藩独自に輸入した機械設備を入れる建物が西洋建物になっていった。

 

旧集成館機械工場
旧集成館機械工場

1865慶応元年:薩摩藩が建てた日本最古のアーチを用いたポーチなど、石造洋式機械工

場。間口42間(約76.3m)奥行7間(約12.8m)。屋根はキングポストトラスを用いてい

るが、現代的構造計算からすると合掌(276×145m)に対し陸梁(467×273mm)が異

常に太くてバランスが悪い。吊束は細い。今日では国の重要文化財であり、2015年「明治

日本の産業革命遺産製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成する「旧集成館」の機械工場とし

て世界遺産に登録されている。

旧鹿児島紡績所技師館
旧鹿児島紡績所技師館

1867慶応3年:集成館隣の鹿児島紡績所に招聘したイギリス人技師の住居として建築され

た技師館。通称「異人館」。木造2階建て、屋根は方形造り、瓦葺で、壁は白ペンキ塗りで

あったこの当時、洋館にとってガラス窓は不可欠の要素であった。板ガラスはまだ輸入に

依存していたので、ガラスの製造・流通が日本産業のテーマでもあった。

 

日本で板ガラスの生産に成功したのは1909明治42年であったが、当初は輸入品との価格競

争で苦境に立っていた。1914年大正3年に第1次世界大戦で品薄になった時、苦境になかで

先進生産法を導入していたおかげで、日本のガラス産業が再び苦境になることがなかった。


鉄道と駅舎

明治になったからといって、江戸から東京へと名前が変わったようにはその姿が近代的な装いにはならなかった。

明治新政府は1869明治2年に自国管轄方式によって新橋・横浜間の鉄道建設を決めた。当時の日本では自力での建設は無理なので、技術や資金を援助する国としてイギリスを選定した。

これは鉄道発祥国イギリスの技術力を評価したことと、日本の鉄道について建設的な提言を行っていた駐日公使ハリー・パークスの存在も大きかった。翌1870明治3年イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任して本格的工事が始まった。

日本側では1871明治4年に井上勝(日本の鉄道の父・長州5傑の一人)が鉱山頭兼鉄道頭に就任して建設が始まった。

駅舎の設計は、横浜居留地で設計事務所を開設していたブリジェンスが選ばれた。

居留地の建物を、清水組の清水喜助などと仕事をしていたが、体系的な建築学を習得したわけでなく、実践優先の技術者であった。

 

エドモンド・モレル

Edmund Morel 1840- 1871明治4年)享年31

専門:イギリス人の技術者・イギリス植民地で鉄道建設に携わる。

来日:1870明治3年、明治政府にも鉄道技術主任として雇用。

仕事:新橋~横浜間日本の鉄道の礎を築いた。

イギリス植民地で鉄道建設に携わり、明治政府にも鉄道技術主任として雇用され、日本の鉄道の礎を築いた。

イギリス公使ハリー・パークスの推薦があり、その職務への忠実性も評価されたモレルは、建築師長(技術主任)に任命された。モレルは早速528日に、民部大蔵少輔兼会計官権判事であった伊藤博文に近代産業と人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出している。また民部大蔵大輔の大隈重信と相談の上、日本の鉄道の軌間を1,067 mmの狭軌に定めている。さらに、「森林資源の豊富な日本では木材を使った方が良い」と、当初イギリス製の鉄製の物を使用する予定だった枕木を、国産の木製に変更するなど、日本の実情に即した提案を行い、外貨の節約や国内産業の育成に貢献することになった。こうしたことから、「日本の鉄道の恩人」と賛えられている。

リチャード・ブリジェンス

Richard Perkins Bridgens 1819- 1891年)

専門:イギリス系アメリカ人の建設技師、測量士。

工部省のお雇い外国人ではない。横浜外国人居留地で独自の建築設計業を経営する。「横浜西洋館の祖」などとも呼ばれるが建築家ではない。

来日:1864元治元年(45歳)~1891明治24年(72歳)横浜で没

仕事:横浜米国領事館1866慶応2

横浜イギリス領事館1867慶応3

東京築地ホテル1868明治元年

新橋駅・横浜駅1872明治5

横浜税関1874明治7

 

新橋駅:ブリッジェンス設計1872明治5年完成。竣工当時の新橋停車場正面写真(「ザ・ファー・イースト」より 横浜開港資料館所蔵)屋根の納まり、建築デザインとしてはまとまりに欠け、素人がデザインした感がある。

    

近代的灯台

殖産興業で重視された分野は鉄道、鉱山、通信であったが、日本が諸外国に開国し、通商を図るには船舶の航行の目印となる灯台の建設が必要となった。日本政府の灯台建設技術者募集に応募し、1868慶応4年に技師長としてリチャード・ブラントンが採用された。

ブラントンは灯台と付属の建築物を全国に建てていった。

 

 

リチャード・ヘンリー・ブラントン

Richard Henry Brunton, 1841- 1901年)

専門:イギリスのスコットランド出身の土木技術者

来日:1868慶応4年<滞在約8年間>1876明治9年離日

仕事:灯台建設主任技術者

 

明治政府に灯台建設主任技術者として雇われ、明治初期の灯台建設を指揮した。勤務していた76ヶ月の間に灯台26、灯竿5(根室、石巻、青森、横浜西波止場2)、灯船2(横浜港、函館港)などを設計した。このため「日本の灯台の父」と讃えられている。

 

 

 

1868慶応4に妻子及び技師補2人を伴って来日した。当時26歳。エジンバラのスティーヴンソン事務所の支援を受けながら、1876年(明治9年)までの8年間の日本滞在中に、和歌山県串本町の1870明治3年の樫野崎灯台を皮切りに26の灯台、5箇所の灯竿、2艘の灯船などを建設し、日本における灯台体系の基礎を築き上げた。また灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いだ。

 

灯台以外でも、近代日本の創成期に多くの功績をもたらしている。

日本初の電信架設(1869明治2年、東京・築地~横浜間)のほか、幕府が設計した横浜居留地の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し街路を整備した。また、日本最初の鉄道建設についての意見書を提出し、大阪港や新潟港の築港計画に関しても意見書を出している。

ほか、横浜公園の設計も委任された。

1870明治3年:樫野埼灯台・ブラントンの日本での初設計
1870明治3年:樫野埼灯台・ブラントンの日本での初設計