居留地の洋風建築 その5-居留地の終焉と影響:「ハイカラ」

居留地の終焉と影響:「ハイカラ」

居留地は外国人を一ヶ所に集めておけるので、日本人との紛争防止に役立つなど、日本政府にとって便利な面もあった。半面でやはり治外法権、領事裁判権を認める不平等条約の落とし子であり、国家的な体面から容認できないものであった。

少しずつ日本の社会が異人さんになれるにしたがって、欧米列強側の維持費の都合から、長崎では1876明治9年に居留地の返還が行われ、横浜でも1877明治10年に日本側の行政権が回復して事実上撤廃されたが、他の居留地は依然として継続された。

1899明治32年各地の居留地は一斉に回収(返還)された。居留地が置かれていた都市の港は居留地時代に大きな発展を遂げ、特に神戸は上海、香港を凌ぐ東洋最大の港へと飛躍していた。これ以降、外国人は「内地雑居」を認められて旅行制限も解除された。ただ、横浜、神戸においては旧居留地を中心とする貿易が続いていた。

居留地貿易とは外国商人と日本商人が取り引きすることで、輸出品(生糸が全体の約80%、茶12%、蚕卵紙4%、海産物3%、工芸品その他)を販売する日本の商人を売込商といい、輸入品(毛織物40%綿織物35%、武器7%、戦艦6%)を買い取る日本の商人を引取商といった。

最大の貿易港は横浜で、最大の貿易相手国はイギリスであった。

アメリカは南北戦争(1861-65)の影響で貿易額が少なく、フランスも普仏戦争(1870-71)で国内が不安定で貿易どころではなかった。

 

開国による貿易の影響は、製糸業(生糸を生産)は官営の製糸工場の建設などでマニュファクチュア経営が成功した。

一方、綿作・綿織物業は機械生産による安価な綿織物の輸入により経営を圧迫され、物価の上昇を招いた。特に雑穀・水油(菜種油)・蝋(ろう)・呉服・生糸の5品目は品不足からの物価の高騰が起こった。

特に生糸は大幅な輸出増大により国内の物資不足が原因であった。

 

ハイカラさんが通る

開港場の居留地は、長く鎖国下にあった日本にとって西洋文明のショーウィンドーとなり、文明開化の拠点であった。

西洋風の街並み、西欧人の住宅、ホテル、教会堂、洋館はハイカラな文化の象徴となる。

この居留地を中心として横浜、神戸の新しい市街地が形成され、浜っ子、神戸っ子のハイカラ文化が生み出されることになる。

 

横浜居留地では、1862文久2年から1887明治20年まで25年にわたって『ジャパン・パンチ』が発行された。

この雑誌は、『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』特派通信員として来日したチャールズ・ワーグマンが出版したもので、風刺漫画で有名である。ジャパン・パンチによれば、当時人口2千人ほどの居留地外国人の楽しみは根岸競馬場での競馬観戦であり、テニスやラケットボール、クリケット(英国人)、野球(米国人)も人気があった。多くのスポーツ競技も居留地から日本に伝わった。

このほか、横浜・神戸・長崎では英字新聞も発行されている。

 

 

明治維新の政府は、西洋文明をそっくりそのまま移植しようと考えた。その文明開化を推進するにあたって、形から変えていこうとした。

そうしたものの代表的なものが断髪令・洋装であり、子供の教育環境である学校、官公庁、病院等の建造物を洋館にすることであった。

新政府は幕府が計画していた鉄道網の建設構想を引き継ぐとともに、殖産興業を大々的に推進するために工部省を創設し、そこに大勢の技術系外国人を雇用した。幕末期から外国人は23年契約で雇われ、更新される者もいたが、順次日本人に取って代わられた。

 

「お雇い外国人」と呼ばれる人々は、日本の近代化に必要な西欧の先進技術や知識を単にもたらしただけではなく、彼らの日本滞在を通して日本人に海外の生活習慣を紹介し、また反対に日本の文化を海外に紹介する役割を果たした。

ほとんどは任期を終えるとともに離日したが、日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で妻帯あるいは生涯を終えた人物もいた。(その2:居留地の洋風建築・完)