居留地の洋風建築 その4-その他の居留地 

長崎居留地

鎖国時代から貿易港として機能してきた長崎港は、1854安政元年に国際開放された。

この時は来航する外国船に薪水を供給する程度であったが、1859安政6年に本格開放され、1860万延元年から大浦一帯の海岸が埋め立てられて居留地が造成された。1870明治3年完成。グラバー邸を中心とする東山手・南山手(重要伝統的建造物群保存地区)にも拡大された。

 

江戸時代から日本唯一の対外貿易港であった長崎の居留地には、当初、多数の外国人が押しかけて繁栄したが、明治になると長崎居留地はそれほど発達せず、むしろ普段は中国大陸の上海を中心とする租界に在住した欧米人の保養地として賑わうようになった。

 

居留地の海岸に近い方には貿易のための商館や倉庫が建造され、中程にはホテル、銀行、病院、娯楽施設が並んだ。

眺望がよい東山手や南山手には洋風住宅・領事館が建てられた。

また、近隣に雲仙温泉を控えていたことも、欧米人にとっての保養地としての魅力を増すこととなった。

今日でもオランダ坂に代表される石畳の坂路や点在する洋館などに居留地時代の雰囲気を残す。

最初に日本に来た外国人は、自分の家を自分で計画し、日本の大工に手取り足取り指示して建てなければならなかった。

材料も自分で取り寄せる必要があった。日本の大工は素直に、指示されるままに建てたことであろう。

当初の洋風建物には日本の大工の気ままな遊びは見られない。

 

グラバー邸
グラバー邸

1863文久3年:明治維新の中で武器を日本で売って財を成した外国商人の代表。

アジアの気候風土を考慮したコロニアル・スタイル。

インド、東南アジアからのモンスーン気候の高温多湿を考慮したヴェランダを取り入れた。

グラバーの直接の指示で日本の職人が立てた邸宅。

オルト邸
オルト邸

1864元治元年:寄棟屋根桟瓦葺きに、3方をヴェランダが取り巻き、窓は外開きの

鎧戸あるフランス窓。軒高が高く、三角ペディメントの切妻屋根の大きなポーチが

前方に突き出している。高い天井のヴェランダを支える列石柱が印象的で、

コロニアル・スタイルの本格的洋風建築。設計者の名前は不明であるが、

インドや東南アジア経由のイギリス人の技師と思われ、施工は天草出身の棟梁、小山秀之進。

リンガー邸
リンガー邸

*1867慶応3年:グラバー邸と同じ公園内立てられたリンガー一家の邸宅。

木骨石造つくり。グラバー邸、オルト邸と同じヴェランダコロニアルのポーチが特徴。


箱館・新潟

箱館(函館)は、1854安政元年から米国船の寄航が認められ、1859安政6年正式に開港し、元町一帯が居留地と定められた。

地理的にロシアに近く、領土や漁場に関しての戦略的拠点で1800寛政12年頃からロシアとの交渉の場となっていた。

1868明治元年には幕府反乱軍が箱館を占領し、五稜郭で箱館戦争が起こっている。諸外国は中立を守った。

1869明治2年には北海道開拓使が札幌に開設され、その支所としての機能と本土との連絡拠点として発展した。

 

箱館の居留地は地盤が悪いこともあって、ほとんど有名無実で、実際には外国人は市街地に雑居した。

最初から雑居したので、赤レンガの倉庫やカトリック教会、ロシア正教会の教会堂が町中に残る。

雑居したため、比較的早く町全体が和洋折衷の独特な町となった。

上下和洋折衷店舗
上下和洋折衷店舗

*函館の和洋折衷建物の特徴は、1階は下見板張り(ささら子下見板張も)の

和風で格子戸を持ち、2階は下見板張りにアイボリー、ピンクや緑などの

ペンキ塗装、縦長の上げ下げ窓か両開き窓を持つ、「上下和洋折衷住宅」であること。

屋根の形態は日本古来のもので、主として和風瓦を使用、

軒下に洋風の持送りと軒蛇腹を持ち、さらに1階と2階との境にも

胴蛇腹があり、4隅の柱は柱型が出ているものもある。

五稜郭
五稜郭

*1864元治元年竣工の西洋式城郭「五稜郭」:1855安政年、箱館奉行所の

武田斐三郎がフランス軍艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の

絵図面を写し取った。武田は、この絵図面を基に西洋式の城郭「五稜郭」の

設計を行い、1864元治元年に竣工させ、箱館奉行所を五稜郭内に移転し業務を

開始した。1869明治2年に箱館戦争の場となった。外国との戦には使用されなかった。


 

日本海側の新潟港は、江戸時代に北前船の寄港地として発展し、1868明治元年に対外開港した。

ただ、ロシア人の来住が少ないため特に居留地は設置せず、市街に雑居することが認められた。

そのころのロシアは、1853年から56年にかけてのクリミア戦争で経済が疲弊し、アラスカに進出してロシア人が定住していたにも拘らず、1867年に720万ドルでアメリカに売却する状態であったため、幸いなことに日本への関わりも弱くなっていた。

強いロシアの状態であったら、北海道開拓の歴史も変わっていただろう。