築地居留地
東京は開港場ではないが、1869明治2年に築地鉄砲洲に外国人居留地が設けられた。今日の中央区明石町一帯の約10haである。築地居留地は、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。このため、青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院、雙葉学園の発祥地となっている。
現在この地区のシンボルになっている聖路加国際病院も、キリスト教伝道の過程で設けられた病院が前身である。
また外国公館も多く、1875明治8年にアメリカ合衆国公使館が設置され、1890明治23年に現在の赤坂に移転するまで続いた。
築地に置かれた公使館やキリスト教会の母国は9カ国に達し、最盛期には300人以上の外国人が暮らした。
築地居留地は近代文化・産業の発信地であった。1899明治32年の治外法権撤廃で法的に廃止され、建ち並んでいた洋館も1923大正12年の関東大震災で全て失われた。


横浜居留地
諸外国と締結した修好条約では開港場は神奈川となっていたが、東海道筋の宿場町である神奈川宿では日本人との紛争が多発すると懸念した幕府は、勝手に街道筋から離れた辺鄙な横浜村に開港場を変更してしまった。
オールコックら英米外交団は条約の規定と違うと強硬に抗議してきたが、幕府は横浜も神奈川の一部であると押し通した。
横浜港は、1859安政6年7月4日に正式開港し、まず山下町を中心とする山下居留地が4年で完成した。
横浜居留地は幕府が勝手に造成したため当初は日本風の造りであったが、1866慶応2年の大火“豚屋火事”の後、洋風に改められた。
この復興工事は幕府から明治政府が引き継いだ。
居留地は掘割で仕切られていて、入り口にある橋のたもとには関所が設置されていたので、関内居留地とも呼ばれる。
その後、外国人人口がさらに増加したので、1867明治3年には南側に山手居留地も増設された。山下居留地は主に外国商社が立ち並ぶ商業区域となり、山手居留地は外国人住宅地となった。
現在観光コースになっている山手本通り沿いにある数棟の西洋館は、旧イギリス7番館(1922大正11年)を除けば、すべて観光資源として昭和時代以降に建築されたものか、他所から移築されたものである。
1859安政6年7月時点で50名近くの外国人が居住したと言われ、イギリス人が最も多く、そのほとんどが新天地日本との貿易で一攫千金を狙う商人だった。1863文久3年には西洋人だけで約170人がおり、半数近くがイギリス人だった。
開港当時の様子を描写した著作のあるアーネスト・サトウは、オールコックと思われるある外交官が居留地の外国人社会を「ヨーロッパの掃きだめ」と称したと記し、商人と公的に派遣された各国の役人との仲は悪かった。
横浜の外国人はイギリス次いでアメリカ、ドイツが多かった。

19世紀の中ごろ、イギリスはヴィクトリア時代の隆盛期に差し掛かって世界中に植民地を開拓中、アメリカは南北戦争が終わって西部開拓の終盤で、1867年ロシアからアラスカ買収、ドイツは普仏戦争でフランスを破りドイツ帝国が誕生する隆盛期であった。
一方、オランダはベルギーとルクセンブルに分離、フランスはドイツに負けて共和制に移行しつつあった。
ロシアは内戦がひっ迫してアラスカをアメリカに売却せねばならなかった。そうした世界情勢が居留地にも影響し、イギリスが主流となっていた。
1872明治5年には、イギリス人のエドモンド・モレルの指導により、新橋-横浜間に鉄道が開通した。
当時の横浜停車場(後に桜木町駅となる)は居留地を出てすぐの所であり、新橋停車場(後に汐留貨物駅となる)は築地居留地の外縁にあった。
つまり、日本最初の一般営業鉄道は、横浜居留地と築地居留地を繋ぐものだったのだ。
*駅舎の右遠方に山下居留地がある。線路を敷設するのには、鉄道が当時の日本人にとっては未知のものであったことから、反対運動が多くあった。
薩摩藩邸などがあった芝~品川付近などでは、築堤を海上に築き、その上に線路を敷くことにした。全線29kmのうち、1/3にあたる約10kmがこの海上線路になった。