各地の異人さんの住まい「異人館」
その1-飛び込んできた外国人の町と洋館
日本は、長い鎖国の時代をくぐりぬけ、突然の開国をせざるを得なくなった。
攘夷論者も、1860万延元年ごろから開国派に変わり始めた。
西洋列強の実態を知った日本人は「殖産興業」「富国強兵」を旗印に、人間の意識改革や生産施設の近代化を全国的にはじめた。
時代は江戸から明治へと変り、首都も京都から東京に移動した。
そして、突然のように、日本人の生活のなかに外国人の生活が飛び込んできた。
そのため、混乱を防ぐために外国人の生活を一定区域に限る「居留地」を設けた。開国の頃からは「外国人」という言葉も用いられたが、明治期の庶民層では「異人」が最もよく使われた。特に欧米の白人を指す。
前史
鎖国時代の長崎に設置された出島や唐人屋敷も一種の居留地であるが、出島のオランダ人や唐人屋敷の中国人(清国人)はみだりに長崎市街へ外出することは許されなかった。
1854安政元年の日米和親条約では米国商船の薪・水供給のため下田、箱館の2港が開港され、日英和親条約では長崎と箱館が英国に開港されたが、外国人の居住は認められなかった。
その後、ロシアやオランダと締結された和親条約も同様である。
居留地の始まり
江戸幕府は、安政年間に、1858安政5年の日米修好通商条約をはじめとして、英国、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。いわゆる不平等条約といわれる「安政の五カ国条約」である。
この条約では、東京と大阪の開市、および、箱館(現:函館市)、神奈川(現:横浜市神奈川区)、長崎、兵庫(現:神戸市兵庫区)、新潟の5港を開港して、外国人の居住と貿易を認めた。
神奈川宿の場合は街道筋から離れた横浜村(現:横浜市中区)であり、兵庫の場合もやはりかなり離れた神戸村(現:神戸市中央区)であったが、いずれにしても開港場には外国人が一定区域の範囲で土地を借りて住宅、倉庫、商館を建てることが認められた。

居留地の外国人は、居留地の十里(約40km)四方までの外出や旅行は自由に行うことができた。
条約上は領事裁判権を認めただけのものであり、居留地内の外国人も日本の行政権に従う必要があった。
だが実際には諸外国とのトラブルを避けるため治外法権的取り扱いがなされ、生麦事件のような事件が起きた。
関税以外の租役は徴収されず、また外国人商人の外出には日本人の護衛が付けられることが通常であり、日本人商人との貿易は居留地内に限定された。これが居留地の始まりである。