暮らしの近代化の通史ーその4

その4-住まいの「近代」と「現代」の区切り

 

1955昭和30年の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言したものの、農村や都会の労働者階級の人々の暮らしの近代化は行われていなかった。特に農村の近代化は遅れ、江戸時代の生産方法であり消費生活であった。

 

戦後、日本の住宅不足は430万戸といわれた。多くの人は焼け残った家に、複数世帯で共同生活を強いられた。自分の家を焼け出された人は、自分の敷地の防空壕を改造した壕舎やバラックを建てた。

焼け落ちたバスや電車を家にする人もいた。

 

1950昭和25年、戦後の混乱が多少落ち着いてきて、それなりの家を建てる時となった。

多少経済的に恵まれた人たちで、建築用地を所有している人は、住宅金融公庫の融資制度を利用してバラックの建替えが出来るようになった。民間企業は月賦積立方式の住宅会社が活動を開始した。

 

都会の借家・借間に住んでいた人たちは、公営住宅が準備された。

1955昭和30年、経済復興と共に新たに生まれた戦後の中産階級に対して、都市の郊外に日本住宅公団の賃貸住宅が建設されるようになってきた。それでも日本の住宅不足は解消されず、衣食は足りても住の不足は深刻であった。

そうした状況を補う形で登場してきたのが「木賃アパート」であった。

 

 

*木賃アパート:遊休地や耕作できなくなった農地を利用して建てられた戦後の共同住宅。簡易な木質構造・屋根鉄板瓦棒葺き・外壁波板鉄板ペンキ塗り・断熱材なし・木製建具・設備のない4.5畳の部屋を各階6戸+共用の8畳大のキッチンで流し共用・ガスコンロは個別・トイレ共用(男子小1/男女共用大2)・1階に洗濯用外流し。1976昭和51年の住宅建設計画で最低居住水準以下となって急速に姿を消す。写真は筆者が住んだ昭和30年代の常葉荘。今でいえばシェアハウスが近い。

いまの木賃アパートは、専用の住宅設備が整った木造の共同住宅であるが、かつての木賃アパートは共用設備の台所、トイレで、風呂は勿論銭湯であった。共用の台所の外には洗濯用の外流しがあった。

遮音性のない4.5畳の部屋にテレビと冷蔵庫があり、そこに親子4人が寝ていた。

子供がいる働き盛りの所帯は、外流しの脇に洗濯機を置いていた。ガス、水道、家電製品を除けば、江戸の棟割長屋以下のレベルで、それでも統計上は1戸と数えられ、昭和35年ごろには60万戸はあったといわれている。

こうした共用設備の木賃アパートは、地方から集団就職で都会に出てきた若者の住居であった。

地方から上京して窮屈な下宿生活脱出し、自由に出入りできる独立した家であった。住人同士のコミュニケーションは共用台所での炊事の時間だけであったが、それなりに楽しい暮らしをしていた。

しかし皆、そこを出てより良い住宅への転居が夢であった。

その夢が団地であり、その夢に到達するには抽選に当たらねばならず、30回申し込んでやっと優先権が得られる状態であった。

収入制限はあったが、所得の上昇で何とかなると楽観的であった。

 

こうした木賃アパートから脱出できる見通しが立ち始めたのは、所得倍増政策の効果が出てきた昭和40年過ぎてからだった。農村も都市の下層国民の暮らしの実態は、昭和40年頃まで前近代(江戸時代)とあまり変わりのない時代であった。

 

つまり、農山漁村と都市に吸い寄せられた下流階級の「近代」は1965昭和40年頃まで継続していたということである。

それは近代が1868年の明治維新からほぼ1世紀の時点まで続き、1966昭和41年以降の55年間が「国民生活の現代」といえる。

戦前生まれで戦中・戦後を体験した人間にとって、終戦は何事においても歴史の大きな区切りであった。

常に終戦を起点にして物事を考えてきた。しかし、戦後生まれの人が主体の今、昭和30年代の話をすると、我々が江戸時代を考えるのと同じように、歴史の彼方のような感じがするようだ。

 

戦後生まれの人たちにとっては、終戦の区切りよりももっとインパクトが強い区切りがあるかもしれない。

「現代はいつからか」という問いはいつの時代も新しい課題である。

そういう想いが今回、歴史を見直す動機になった。

現在の「現代」という歴史の区分は、次のどこでどのように終わるのか分らないが、人類が生存する以上歴史は続く。

 

「現代」は、現代社会を構成する人が共通認識できる価値観であるべきだと思う。

そして今生きる私たちの「現代」の区切りは、新安保闘争が収まり、オリンピックと万博で国際社会に返り咲き国民一億総中流化が始まった頃のことだったのではないかという問題提起である。

また、その始まりは現代の「格差社会」が始まった時ともいえる。

その現代が始まる時は、国民が「持ち家」を目指し、日本の住宅問題を解決する住宅建設法による第15か年計画が始まった1961昭和41年であった。

 

また、日本の都市の景観を変える超高層ビルの第1号である霞が関ビルの骨組みが、東京の空に姿を見せた時でもあった。(1:暮らしの近代化の通史・了)