暮らしの近代化の通史-その3

その3-下流階級の近代化は戦後はじまった

 

2次大戦では、物資豊富なアメリカとの戦争に至り、結果は敗戦して都市部は焼け野原となった。

それまで築いてきた明治からの殖産興業・富国強兵の都市部のストックが一瞬のうちに消えてしまった。

戦後はゼロからの再スタートとなり、この節目を日本の「現代」とするのが一般的ではある。

戦後、日本は国連軍の進駐指導によって再出発をした。進駐はアメリカが主体となって、日本各地にアメリカ進駐軍のベースキャンプ(昭和の居留地)が生まれた。そこには、経済的に豊かな若い兵隊たちが、アメリカ生活文化と最先端の流行を持ち込んできた。

町には基地から流れ出た闇物資があふれ、明治時代の居留地と同じように、基地の周辺や大都会からアメリカンファッションとハンバーガーとコカ・コーラに代表されるアメリカ生活文化が発信された。

日本の戦後改革は、再び軍備が出来ないように財閥解体で大企業を解体し、共産主義が拡散しないように大地主(華族、政財界人の地主だけでなく地方地主も含む)の農地開放を行い、小作人を小地主に変えた。

小地主は、土地の所有権をタダ同然で取得できたが、それまでの小作人時代と規模はあまり変わらなかった。

 

そのため、戦後の経済復興の中で、工業に比べると農業による農家の自立は難しく、保護政策で農業を支えることになった。

戦後、都市部は空襲で住宅は焼失し、外地から引き揚げてきた人たちで住宅不足が深刻であった。

焼け出された人は、土地があればバラックを建てた。

 

海外から引き揚げてきた数百万人は、遠い親戚を頼って押しかけ同居させてもらった。

住居ではない建造物にも人は住む時代で、終戦時430万戸の絶対的住宅不足1970年代まで続いた。

 

戦後直後の混乱が収まって、新しい憲法と法律の下でアメリカの援助のもと脱脂粉乳や小麦粉が送られてくるようになってきて、子供の食料を確保できるようになった。全ての子供が学校給食でパンを食べ、牛乳を飲む洋風の食生活になってきた。

 

同時に、民主主義思想に基づいたカリキュラムで教育を受け、補助教材としての教育映画(ナトコ映画)でアメリカ文化を植え付けていった。

*ナトコ映画::National Company16mm映写機を用いた教育映画による民主化促進プログラムで、全国の小中学校で上映された。主にアメリカの衣食住と教育に関する内容。高等教育に対しては「フルブライト留学制度」が準備された。企業に対してはデミング博士の「品質管理」講座がもたらされた。

 

戦後の日本の経済復興は、朝鮮動乱による特需景気で繊維・金属産業が活況となり、海外から引き揚げてきた人たちを労働者として雇って、糸偏金偏ブームといわれる好況となった。

1955昭和30年には「もはや戦後ではない」とまでになり、「3種の神器」が街に出回り始めた。

 

S35テレビ58,000円 S32洗濯機23,000円 S32冷蔵庫58,000円 S35 初任給 上級(大卒)10,800円 中級(短大)8400円 初級(高卒)7,400円
S35テレビ58,000円 S32洗濯機23,000円 S32冷蔵庫58,000円 S35 初任給 上級(大卒)10,800円 中級(短大)8400円 初級(高卒)7,400円

この頃、農村の生活は農作業も日常生活も江戸時代のままであった。農作業の労働力を補助する大切な馬は、家の中で人間と一緒に暮らしていた。土間の台所は真っ暗で、釣瓶井戸から水甕に水を運び、風呂桶に水を汲み入れた。

 

食事の度に火を熾し、火を熾すにもマッチは貴重品で、囲炉裏の火種から附木で竈に火を移して飯を炊いた。

水汲み、雨戸閉め等の簡単な家事は子供の仕事であり、農作業が忙しい時には「農繁期休み」で田植えと稲刈りの時期は子供も労働力の一部であった。食生活はまさに自給自足・一汁一菜であった。

 

コメを生産していても、戦後、強制的に供出させられて、農家でも主食がイモの時があった。

漬物保存のために味噌蔵は不可欠で、海から遠い内陸部の動物性蛋白は干物で、時にとれた川魚は燻製にされた。着物は洗い張りで何度も再生して着物になった。

上左:附木で藁に点火して薪や燃やす旧竈 上右:嫁を迎えるために簡易水道、瞬間湯沸かし器がつけられている。下:明るい農家の理想的な台所改善モデル。大きな窓、白いペンキ、白いタイル。下洗いの深いシンクと調理シンク。左側には煙を外に排除する煙突をつけた改良竃と石油コンロ。それに比して天上から下げられた裸の蛍光灯15Wは30年代では一般的な照明。
上左:附木で藁に点火して薪や燃やす旧竈 上右:嫁を迎えるために簡易水道、瞬間湯沸かし器がつけられている。下:明るい農家の理想的な台所改善モデル。大きな窓、白いペンキ、白いタイル。下洗いの深いシンクと調理シンク。左側には煙を外に排除する煙突をつけた改良竃と石油コンロ。それに比して天上から下げられた裸の蛍光灯15Wは30年代では一般的な照明。

手編みのセーターは穴が開いてほころんでも、ほどかれて毛糸になって再びセーターとなった。靴よりも草履・下駄が主で、新しい洋服を着るとからかわれて恥ずかしいと思うこともあった。

 

農村では、この様な生活が昭和20年代の末まで続いた。

神武景気になって三種の神器にあこがれても、農村では冷蔵庫に入れるものがなかった。

 

洗濯機は水道がなければ利便性は発揮できなかった。テレビは高いアンテナを立てても電波が届かなかった。

 

こうした農村が変わり始めるのは、昭和30年頃から始まった農村から大都会への「集団就職」と人手不足による「出稼ぎ」だった。その結果、農村から男と若者が消え、じーちゃん・ばーちゃん・かーちゃんの「三ちゃん農業」となってしまった。

 

こんな農家の最大の問題は後継ぎだった。

 

後継ぎがいても街に就職してしまい帰ってこない。

農業の後継ぎが帰ってきてもがきてくれなかった。

その原因は田舎暮らしの生活が江戸時代のままで、極めて不便だったからである。

出稼ぎで得た現金収入を貯金し、やっと自分の暮らしを改善するようになってきた。

 

最初は井戸に簡易電動ポンプをつけ、台所と風呂に水栓をもうけて水汲み労働の解放を図った。

それは外の流しを家の中に入れることであり、そのために光を取り入れる窓も必要となった。

 

 

そして、煙がでる竈からプロパンガスコンロ、そして念願の家電製品のためのコンセントをもうけた。

 

この様にして、農家の台所改善で家事労働を大幅に節減することで嫁が来るようになり、主婦もテレビで朝ドラを見ることができるようになって都会と同じ情報を共有化できるようになった。

牛馬は耕運機に変わり、農村の産業革命が始まった。

 

また、新産業都市構想で大都市の工場が地方に移転し始めた。

 

そのため、子供たちは集団就職で大都会に出なくても、地元で就職できるようになった。

工場移転でその下請けの工場もやってくると、カーちゃん、バーちゃんもできる内職の手仕事が生まれた。

 

1966昭和41年以降、日本社会は都市も農村も総中流化し始めた。

 

先進的な産業はグローバル化の中で大きく変わり、農村も変化しなければならない。

農山漁村も昔に比べたら生活の質は高くなって、都市に従属することなく現代的課題に取り組んでいる。