暮らしの近代化の通史-その2

中産階級の台頭とハイカラ洋風化

明治維新で、士族の多くは役人や教師となった。

また殖産興業で新たに事業によって多くの企業が生れ、多くの企業サラリーマン(雇用された会社員)と労働者を生み出した。

また、平民となった地主と商店主などの子供も、読み書きを習得して中産階級となり、中流社会の一員となった。

 

*中産階級(middle class):資本家(有産階級)と労働者(無産階級)の両極の中間に位置する階級。

   土地所有者、金利生活者、自営農民、商工業自営業者または手工業者および自営の専門職従事者(医師、弁護士など)からなる。

   これら商工自営業主層および自営農民は旧中産階級と呼び、被雇用者であるホワイトカラー労働者を指して新中産(中間)階級と呼びわける用語法があるが、

   ここでは両方まとめて「中産階級」という。

   極端に豊かでも極端に貧乏でもなく、いざという場合の蓄えをもった安定した生活とゆとりある生活感覚をもち、勤労と自立・自由の気風を保持する。

   現状維持のために保守的志向が強い。

 

この中産階級には農民、商人、職人も学業を積んで到達できる階級でもあった。

しかし、小作農や職人の子供が高等教育をうける費用を準備するのは並大抵ではなかった。教育を受けさせるために、多くの国民が子供のために教育費を借金し、次男以下は後継ぎがいない中産階級の養子になることを条件に教育費を工面した。

 

さらに、女性の場合は高等教育不要という男性優先の時代で、男性のために女性が犠牲になることも多かった。

江戸時代、士族の多くは武術のみならず、読み書き算盤はできていた。

 

庶民も経済力があれば、寺子屋で基礎教育が習得できていた。

そうした社会の学力は、日本社会の近代化の大きな力だった。

新政府はそれを新たな教育制度として定着させ、その効果は明治後半から大正期に現れてきた。

 

1899明治32年、全国の外国人居留地が返還された。居留地は、長く鎖国下にあった日本にとって西洋文明のショーウィンドーとなり、文明開化の拠点であった。西洋風の街並み、ホテル、教会、洋館はハイカラ*な文化の象徴となっていた。

この居留地を中心として横浜、神戸の新しい市街地が形成され、浜っ子、神戸っ子のハイカラ文化が生み出されることになる。

 

ハイカラ(high collar):洋装の「高い襟」のこと。

   この頃の外国人の正装を西洋風の身なりや生活様式をする様、人物、事物などを表す日本語の単語。

   1898明治31年頃から、当時、東京毎日新聞の主筆であった石川半山(石川安次郎)が紙上で使い始めたのが流行語となり、やがて定着した。

   対義語はバンカラ(蛮カラ)。

 

横浜居留地の人口は2千人ほどで、居留地外国人の楽しみは根岸競馬場での競馬観戦であり、テニスやラケットボール、クリケット(英国人)、野球(米国人)が人気あった。多くのスポーツ競技も居留地から日本に伝わった。

このほか、横浜・神戸・長崎では英字新聞も発行されていた。

こうしたハイカラ文化が居留地返還と共に急拡大していった。

同時に、居留地内のキリスト教系の学校や教会も一般の町(雑居地)に建設されていった。

 

函館ハイカラ号
函館ハイカラ号

中流階級となった人たちはそうしたハイカラ文化にあこがれ、多様な形で取り入れていった。上流社会しか楽しめなかった娯楽を中流階級が楽しみ始めた。

郊外電車が走り、ターミナルにできたデパートで買い物をし、子供には食堂で洋食を食べさせた。町には路面電車や乗り合いバスが走り、モガ・モボのファッションで街を歩き、バーでウィスキーを飲みカフェでケーキを食べた。

新しい娯楽はラジオ、映画になり、文学界では雑誌が発行され、竹下夢二の挿絵がついた大正ロマンチシズムの小説を読み、絵画はよくわからないアヴァンギャルド(前衛)絵画を見ながら議論した。

 

建築界では伝統にとらわれないモダニズム建築が出現した時代である。

住生活では、郊外にローンで夢の分譲住宅が売り出された。しかし、この時代の住生活はまだ持家にまでには到達していなかった。

そこに住むことが出来たのは、中産階級でも極恵まれた人たちであった。

 

多くは社宅や借家住まいで、いいとこハイカラな消費生活において贅沢をする程度であった。

大正時代は中流階級と共に労働者階級も急激に増大した時代であった。

 

1917大正6年、ロシア革命が成功して急速に社会主義思想が世界に広まった。

社会主義思想による共産主義化を恐れたのは上流階級の人たちだった。私有財産を取り上げられ、肉体労働を平等に強制される逆転した社会が到来するという恐れとなった。

ロシアはソヴィエト連邦となって周辺国に影響を与え始めた。

日本もそうした影響から、反共産主義の弾圧が生まれ始めた。

産業革命に成功した西欧諸国は、近代の階級社会が出来ていて、社会の資本家と労働者の対立構造が露になっていった。

 

中流階級もそうした対立構造に巻き込まれ、難しい立場になった。ホワイトカラーのサラリーマンは企業の雇用人であるので工場労働者と同じ立場であるが、仕事の内容は資本家と同じ意識で仕事を企画し計画を実行していく立場であったので微妙であった。多くは小さな贅沢で満足する「プチブル」となった。

 

プチブルPetite bourgeoisie):プチ・ブルジョワの意味。マルクス主義の用語。

   自作農や商店主の他、知識を切り売りする弁護士や医師などの専門家、才能や技能を切り売りする芸術家や俳優も含む中産階級を指す。

   小市民ともいう。プチブルの意識はブルジョワに近く、生活はプロレタリアに近い。内面の自由を侵されることには強い反発を示し、一方労働者階級の革命運動にも敵意を示す特徴がある。

 

居留地が返還され、洋風化が「ハイカラ」という言葉と共に広く浸透するに反して、「バンカラ」(蛮カラ)志向も強くなってきた。

日本にはもともと「攘夷思想」が根強くあり、日清戦争、日露戦争に勝利したこともあって、日本ファーストの「国粋主義」が強くなってきた。その思想の志向は、芸術の世界で横山大観の絵などの「朦朧体もうろうたい」と呼ばれる、線描を抑えた洋画の没線描法を取り入れた新しい日本画として登場してきた。建築の世界では、1930昭和5年頃に帝冠様式(洋風のビルディングの建物に和風の屋根を組み合わせたようなデザイン)が突然のように展開された。

 

しかし、思想とは別に一般の人々の日常生活は利便性、娯楽性を求めていた。

利便性を提供する工業化は、必要とする天然資源の増大化の一途となった。

資源のない日本は、それを海外に求めねばならなかった。石炭はともかく、石油はほとんどが輸入頼りであり、殖産興業には欠かせない資源であった。

欧米諸国は、それらの資源を植民地政策で確保し、日本もそうした争いに巻き込まれて中国大陸、東南アジアに進出していった。

 

そうした争いの結果が、2つの世界大戦になった。