暮らしの近代化の通史-その1

その1-上流階級の洋風と和風並立

 

明治元年、江戸は無血開城され、年号も改元された。

1871明治2年、版籍奉還されて、とりあえず藩主が知藩事となって日本の新しい行政府が動き出した。

1622元和8年以来、妻子を人質にされて江戸屋敷と国元との間を3年毎に行き来していた大名と家来が、一斉に国元に帰った。

そして、新たに華族となった大名(285家)も限られた家屋敷(2か所)だけを残して、幕府から拝領していた土地をすべて新政府に差し出した。

華族:公家(昇殿を許された上級貴族)に由来する華族を公家華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。1869明治2年に華族に列せられたのは、それまでの公卿142家、諸侯285家の計427家(人数不明)。1874明治4年に内務省が発表した資料によると華族は2891人であった。

 

1872明治3年、朱引内(東京市内)の土地は1169万坪(約60㎞四方)でその7割が武家屋敷(大名、旗本の上・中・下・倉屋敷)で、士族の人口は5割を占めていた。

その大名や家来(約50万人)が国元に一斉に帰国したので、一時、江戸は急激にさびれた。退去した家屋敷は門と塀だけ残して家を取り壊し、江戸はまるで廃墟のようになった。

新しい組織が流用できる建物は利用したが、兵部省が転用した建物は、土足のまま使われたので荒廃がひどかった。

新政府が必要とする施設は、返却された諸藩の屋敷を転用し、新築できるものから新しい洋風建築に建て替えられることになった。

 

太政官制:6

1869明治278

太政官制:10

1875明治8414

大蔵省

大蔵省(明治4年)

造幣寮・租税寮・紙幣寮・出納寮

統計寮・検査寮・国債寮・記録寮

民部省

兵部省

陸軍省

海軍省

司法省

司法省

宮内省

宮内省

 

内務省(明治6年)

勧業寮・警保寮・戸籍寮・駅逓寮・土木寮・地理寮

神祇省→教部省(明治5年)

外務省

外務省

工部省(明治3年)101

工学寮・勧工寮・鉱山寮・鉄道寮・土木寮・灯台寮・造船寮・電信寮・製鐵寮・製作寮・測量司

工部省

工学寮(学科:土木・造家・造船・機械・電気通信・舎蜜冶金・鉱山)

鉱山寮・鉄道寮・灯台寮・電信寮・製作寮

文部省(明治4年)

開拓使

開拓使

 

1871明治4年に実施された廃藩置県で、藩主に代わって地方を治める新しい役職の県令が誕生した。

藩主がそのまま県令となった都道府県もあったが、内務省所管で適材適所の配属を行い、新政府の文明開化と殖産興業を地方で推進する役割を担った。

 

しかし、文明開化を西洋建築という形であらわす建築家はまだ育っていなかった。

地方はなおさらのことで、中央政府の鉱山開発などの事業があれば、「お雇い外国人」を活用することもできたが、そうした仕事がなければ自分で何とかしなければならない。

 

日本は開国すると江戸を東京に変え、文明開化を形から入ろうとした。

目ざとい外国商人が一獲千金を求めて、日本めがけて住み込んできた。

日本人の多くは白色の欧米人を見るのも珍しく、日本で「外国人」とか「外人」というと、一般的に欧米人のことを意味するようになった。

欧米の外国人が勝手に動き回って日本社会を混乱させないようにし、外国人の安全を守るという管理的ことを考慮して、中国の香港などと同じように「居留地」を設定した。

その場所に自分たちが住みやすい住宅、必要な教会などを建築させた。結果、日本にはない建築が立ち、街の風景が変わり始めた。

 

 

衣食遊住

新政府は、近代化のために形から変えていこうとした。

そのために衣服を改め、意識改革のために断髪(散髪脱刀令1871明治4年の法令)を奨励した。

日本人の男性の頭から髷が短期間に消えた。

洋服は機能的であったので、新しい制度を運用する役所と一部の会社では洋服に着替え始めた。

しかし、日中は着ていても家に帰ればすぐに和服に着替えていた。女性の髪形、服装はほとんど変わらなかった。

上流社会の女性も、鹿鳴館の夜会で似合わないドレスを着るぐらいであった。

 

食生活では肉や牛乳が入ってきた。

日本人にとって、非日常的な御馳走といえば冠婚葬祭や季節の変わり目の料理であった。

そこにすき焼きやビフテキに象徴される肉類が入ってきた。

また、子供の体力向上のために牛乳を飲むようになり、アンパンなどの小麦粉を使用する料理が増え、キャラメルなどの甘味菓子が出回るようになった。しかし、本格的な洋食は、まだ外国人が出入りするホテルぐらいに限られた。

 

日本人の遊びは江戸時代とさほど変わらなかった。

歌舞伎、相撲、そして各季節の祭りなど。そこに、居留地の中で欧米のテニス、ゴルフなどの新しいスポーツが登場してきた。

そうした遊びは一部の上流階級の人は楽しみ始めたが、中流、下流の人には無縁のものであった。

不平等条約を早期に改正させるために、鹿鳴館を造って西洋との社交の場を作ろうとしたが、形と中身がそぐわないちぐはぐさが外国特派員の格好のニュースネタになる羽目になった。日本の上流社会の人々も、まだ欧米と対等でないことを認識することになった。

 

上流社会の住まいには大きな変化が生まれた。

町の風景は江戸時代のままで、馬車や人力車が新しい風景となってきた。
町の風景は江戸時代のままで、馬車や人力車が新しい風景となってきた。

まだ、世の中には外国人と話しできる場所がなかった。そこで、自分の家に洋館を建て、食事を供し、仕事の話ができるようにした。

しかし、上流階級の人でも、日常の暮らしは和風から抜け出せなかった。外では洋服でも家に帰れば和服に着替えた。

いわゆる和風住宅と洋館をならんで建てる和洋並立の邸宅であった。経済的に余裕がある財閥は別邸や一族の倶楽部を洋風建築で建て、徐々に洋風化した生活を増大させていった。

この時代は、近代的な都市インフラが出来ていなかったので、ガス、水道、電気、電話、下水を準備し、駕籠の代わりに登場した人力車や馬車がスムーズの移動できる道路、近代化の象徴となった鉄道の建設が大きな課題であった。

そして、公共建築としての諸官庁、学校、病院等を洋風建築で建てるよう奨励した。

そうした新政府の方針を、中央政府から派遣された改革推進派の県令(今の県知事)が各地方で熱心に実行した。山形、福島、栃木や長野、山梨、静岡などにそうした改革の遺跡や文化遺産が数多く残っている。